沈着に合理的であること。憧れは、目の前にあった。あまり笑わない人だった。けれど古寺の狙撃が上手くいったとき、本人がそれを実感できたことを横目で知っていてくれる人。何度か頭を撫でられて、同年代の少年に対するスキンシップとしては正しくないと感じたらしい。最近は、一度だけ肩を叩かれて行ってしまう。名残惜しさは何故か古寺の胸に巣食っては視界を歪ませる。眼鏡の度は合っているのにどうしてか、悲しいことなどないはずだから、正解を弾き出すことは避けた。
 訓練場に人気はなく、古寺が打ち続けた弾の発射音、その残響が耳に纏わりついていた。動かない的に当てるだけならば容易かった。頭の中でイメージした場所を正確に射抜く。A級という肩書きを思う。これ以 上の居場所は、古寺にはありえなかった。S級は、目指して辿り着ける場所ではない。それなのに、古寺はまだ憧れを追う。遠くの背中ばかりを見つめている。訓練は苦ではない。自分の現在の実力、それをデータとして収集して分析して問題点を割り出す。改善し、少しずつ進歩を望む。
 ――けれど。

「章平」

 名前を呼ばれ、返事をするつもりだった。しかし長時間発声することを止めていた喉の渇きは、「ハイ」の二音すら発することなく情けなく空気だけを吐き出した。 振り返ると、制服姿の奈良坂が立っていた。もう帰るつもりなのだろう。どこにでもいる、ありふれた学生の格好だった。それでも、古寺の憧れの、その人だった。
 無為に佇む的を撃ち抜くのでなく、たった一言、奈良坂に成果と課題を言い含めてもらえたのならばそれだけで充分なのに。きっと、頼めば何らかの言葉を告げてくれる筈だった。それをしないのは、同じ隊に属する身でありながら実力差を認め、教えを請わなければならない弱さを鬱陶しいと厭われることが怖いからだ。

「帰らないのか」
「帰ります、もう。ええと、片づけをしたら、すぐに」
「そうか、なら急げ」
「え」
「待 ってる」
「え」
「5分」
「はい!」

 トリガーを解除して、荷物を取りに走る。すれ違いざまに、集合場所を聞き取った。元気よく返事をして、走る、走る。途中、何人かの隊員とすれ違い怪訝な顔をされ、驚いた顔をされ、お偉いさんに会わなくて済んだことは幸いだった。通路を全速力で走る隊員なんぞ、目立って奇怪で仕方がない。
 手にしたスクールバックは軽すぎた。テスト前でもない、その油断。教科書は机の中、筆記用具を持ち歩くのは良識であって実用的でなかった。昼間、教室の窓から見上げた空を思い出す。あの空を割ってやってくる近界民を討たなければならない。窓の少ないボーダー本部は時折息苦しい。けれど今感じる息苦しさは、全速力で通路を駆けたせいだった。どうせなら、もうしばらくトリオン体でいればよかったのにと今更ながらに後悔する。けれども、既に制服姿であった奈良坂の姿を見た途端、どうしてかそれに倣わなくてはいけないような気がした。何一つ強制されていない、古寺の勝手な思い込み。憧れはいつだって身勝手に暴走する。奈良坂に窮屈を強いていやしないだろうか。気掛かりで、あの人ならばそうなればそうと指摘してくれるような気がした。今日のように、無防備に甘やかされている古寺が作り上げた理想像はいつだって完璧なのだ。

「お、お待たせしました!」

 本部前、とうに日の暮れた空を見上げていた奈良坂に、肩で息をしながらどうにか到着を伝える。「現着しました」とは茶目っ気を発揮しても通じる相手ではなさそうで言わない。元より古寺にはその手の軽やかさが足りなかった。同じ隊の米屋あたりならば恥じらいもなく言ってのけそうだったが、高校生ばかり寄り集まった隊にしてはどうにも陽気とはほど遠い集団だった。
 古寺の到着に、一瞥をよこし奈良坂は何も言わず歩き出した。怒っているわけでもなく、古寺がついてくることを知っているかのように。きっと設定された5分はとうに過ぎてしまっているはずだ。何せこのボーダー本部ときたら三門市内きっての大型施設なのだから。廊下や突っ切る部屋のすれ違う人々、その密度が何度も古寺の足取りを遅らせた。それでも奈良坂は何も言わない。端から守れる上限ではないとわかっているのか、古寺だから期待しないのか。不安がるだけ、聞かなければ答えなど寄越してはくれない人だ。

「調子はどうだ」
「えっ」
「訓練、していただろう」
「ああ、はい。ええっと――まあまあです」
「………そうか」

 白々しい会話が、夜に沈み始めた空気に溶けて行く。訓練の好調を報告することに意味はあるのだろうか。隊員は兵士と同義、実戦で成果を出すことが精鋭の二文字に求められているのではないか。近界民を討つことに恐怖も迷いも今はない。ただ奈良坂という古寺にとっての大きい背中に手を伸ばすこと、距離を詰めること、夢見るように生きている。足手まといにはならないように。嗤ってしまう、精鋭なんてきっと自分に相応しい文字ではないのだろう。外側にわかりやすく情報開示するための便宜上の表現だとしても、古寺には到底酔えない称号だった。

「奈良坂先輩、ぼくは…」
「―――?」
「ぼくは、奈良坂先輩みたいになりたいんです」
「……そうか」
「狙撃手として、まだ、頼りない後輩かもしれませんけど」
「………」
「先輩に教わりたいことも沢山あるんです」
「――なら、素直に教わりに来ることだ」
「…え、」
「独りでこそこそ隠れるように訓練するのではなく」
「いいんですか」
「構わない」
「本当に?」
「何故疑う」

 差し出された手に、古寺は思わず足を止めていた。厄介事を持ち込まず、面倒をかけず成長できればよかった。その方が、尊敬する相手の手を煩わせず誇ってもらえると思っていた。奈良坂が、古寺のことをどう思っているかなんて探っても仕方がないことだったから、自身を向上させることだけに必死になった。

「俺は、お前を可愛い後輩だと思っているよ」
「か、可愛い!?」
「だからお前の面倒くらい、見てやるさ」
「…先輩…」
「さて、夕飯でも食べて帰るか」
「――はい!」

 再度軽やかに踏み出した足は迷いなく奈良坂の隣に並び、歩調を合わせた。単純だとわかっている。慕う想いの終着点も知らぬまま、やみくもに懐いている自覚もある。しかしそれでも、鼻歌までも歌いだしそうな古寺のご機嫌に口元を緩めた奈良坂の手が久方ぶりに自身の頭を撫でる感触を、今はただ幸せと浸っていたかった。



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きみの世界のやさしい神様はだれ?
Title by『るるる』






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