できるだけ優しくしてあげたいと思っていた。それは黒子にとって確固とした意志であり、しかし決意と呼ぶにはきっかけがなかった。優しくされたから、せめて同じだけの優しさを返すこと、それはきっと誠意でもなんでもなく、負い目を被らない為の戦いだった。けれどそんな、意図して天秤の平行を図らなければならないほど、黒子は桃井を恐れてはいなかった。だから、桃井に差し出したいと思った優しさは自分なりの厚意のつもりだった。桃井は女の子だから。ひょっとしたら、黒子より体力もあるかもしれない。頭もよくて、可愛らしくて、面倒見が良くて、マネージャーとして帝光中学のバスケ部に必要だった彼女には黒子の優しさなんて微々たる価値を持っていたかどうか、それすらも本人は疑っていたけれど。
 目を合わせることが億劫になった。逃げ出していただけだと知っている。けれど縋るような桃井の瞳を見つける度に、きっと自分も同じ表情をしてしまうことが黒子にはわかりきっていたから、つい逃げ出してしまった。
 ――僕には何もできません。どうしてあげることもできません。だって彼等は行ってしまったから、遠い向こう、光に阻まれて影は消えてしまいました。ただ願うのは、彼ら自身が光になって消えてしまわないことだけ。それすらもきっと図々しい願いごとなんでしょう。だから、どうか僕に何も願わないで。
 そんな黒子の憶病な願いごとが言葉にせずとも桃井に届くことなどありえない。それでも、二人よく似た願いを抱いていたのだろう。身を寄せ合うことはできなくて、置いて行かれてしまった現実に戸惑って、昔話に花を咲かせることはなくとも黒子と桃井の二人だけが覚えていることを選んだ。大好きだった人たちと、まるで友だちのように歩いていた頃のこと。実際は、才能の開花を控えている時分だとしても強すぎる個性に集団に埋没できなかった連中が寄り集まっていただけだとしても。少なくとも黒子は、楽しかったと、幸せだったと過去を振り返るから。桃井の思い出への感傷までも勝手に語り尽くすことはできないけれど、個々の力量に任せた試合運び、日常生活も憚ることなく寂しいと言えてしまうこと。外側から見ていることしかできない無力感を桃井が抱えていたとしても、黒子は彼女の紡ぐ悲しい言葉を尊いと思う。だけどやはり、黒子は桃井の瞳をもう正面から見つめることはできない。

「ねえ、覚えてる?」

 いつからか、そんな言葉で以て始まる会話が増えるようになって、黒子の心臓はじくじくと痛む。過去ばかりを掘り返して微笑むには、大人たちはきっとあなたたちはまだ子どもでしょうと笑うのかもしれない。だけど、今この瞬間大好きな人たちと一緒にいられない寂しさを抱える桃井はいつだって楽しかった思い出を即座に黒子の前で広げて見せるのだ。そんな風に、簡単に取り出せる場所に仕舞っていては先に進めないでしょうにと自分の現状を棚に上げて、なるべく丁寧に相槌を打つ。忘れたふりは桃井を傷付けると知っている。けれど一緒になって傷をひけらかすには、黒子の未練はまだ消えていなかった。

「あの時は面白かったよねえ」
「そうですね」
「青峰君ったら、折角きーちゃんが買ったアイス食べちゃって」
「ああ、そういえば」
「ミドリンは真面目だから買い食い反対してたよね」
「まあ、緑間君ですから」
「そんなのムッくんにいくら言っても効果ないのに」
「はい、」

 自分で喋っているよりは聞き手に回る方が元来黒子の性分には合っていたけれど。回数を重ねるごとに喉の渇きがひどくなっていく。どんな相槌が適当なのかが曖昧に、いくつかの候補が頭の中でぐるぐると巡る。吐き出した言葉が直前に脳裏に過ぎったものであるかどうかも自信がない。そもそも桃井の耳に届いているかどうか。
 黒子の声は、きっともう誰にも届いていないようだから。だからもしかしたら、桃井にだって――。そんなもしもが、ありえない話と否定できないことが黒子の内側に自己嫌悪として募っていく。そうしてひとり、打開策を持たない孤独と絶望を溜め込んでいく黒子を見透かすような瞳で桃井が見つめていることに気付けない。気付いては、きっと黒子は桃井の前からも姿を消してしまうだろう。ごめんなさいなどと、場違いで、黒子の身に不相応な謝罪しか口にすることができなくなる。
 諦めないことを、みっともないと思われたくなかった。桃井の為にしてやれることはなく、大好きな人たちの為と言うにはあまりに望まれていないこと。そしていつかの黒子が願い、いつの間にか望む必要を取り上げられてしまったこと。
 ――勝ちたい、と。ただそれだけの願いを、黒子は諦めない。桃井はきっと放って置けないと寄り添う人がいるから、それが黒子には羨ましかった。その羨望を抱くときだけは、黒子は桃井に対して性別というものを度外視することができた。

「ねえ、覚えてる?」

 桃井は黒子の方を見ない。けれど朗々と紡がれる言葉があり、それを遮ることを黒子は選ばない。
 ――勿論、覚えていますとも。
 できるだけ優しくしてあげたい女の子がいた。黒子テツヤは桃井さつきに優しくしてあげたかった。実際は、桃井の方がずっと何倍も黒子に優しくしてくれたように思う。黒子の優しさは、桃井から歩み寄らねば届かない程度の間合いしか持っていなかったから。
 だからきっと、黒子は忘れてしまう。桃井に優しくしてあげたかったこと、それができたはずだという事実を。懐かしい輝きを放つ過去を、桃井が覚えていてくれるからとひとり俯いて、決別を演じて目を背けながら自分の道を選ぶ。
 だけど。これ以上の自分勝手はないとは思うけれど。
 いつか、黒子が突き進んだ我儘な道の先で、桃井とすれ違いながら懐かしむばかりだった思い出によく似た景色に辿り着くことがあったとしたら、そんな場所で彼女が笑っていてくれたとしたら。黒子はもう一度、桃井に優しくしてあげたいと願っている。



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昔、僕は偽善者だった
Title by『告別』





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