ねえ青峰君、僕は――。
 そんな風にして始まる言葉を、黒子はもうずっと、口を開いては、飲み込んでいる。


 苦しかった。悲しかった。黒子の中学時代の回想は、汗にまみれて、倒れて吐いて、そればかりだった。傍らで慈しむべき思い出は確かに息をしているのだけれど、懐かしむには時を進めるにつればらばらに砕け散っていく。それが黒子の心だったと、当の本人すら自覚することのできないまま彼はひとり姿を消した。残された人間がどれだけのことを察していたのか、それは永遠に黒子の前に詳らかにされることはない。ただ、目の前に砕け散ってしまった欠片を前に途方にくれるだけの未来を、黒子は選択しなかった。姿を消すということが、黒子にとってあの頃できた唯一の意思表示だった。

「ねえ、青峰君――」

 返事はない。ただ、背を向けていた青峰が肩越しに黒子を見る。呼びかけたのだから、続く言葉があるのだろう。青峰はそれを待っている。黒子は自分の言葉がしっかりと彼に届いていることに安堵する。だから黒子はそこで言葉を仕舞ってしまう。何でもありませんと曖昧に微笑むと、青峰は不満そうな顔をする。直感的な人間は、いつだって黒子の必死さを飛び越えて眼前に迫ってくる。過ぎったのは、現在の相棒の背中。面倒見の良い彼は、いつだってふらふらと道に迷う黒子を迎えにやって来る。そんな眩しい光だった。そしてそんな風に彼をけしかけるのは、同じくらい黒子に優しい先輩たちで、時々むず痒いほどに黒子を取り囲む世界は柔らかく温かくなっていた。
 それを幸せと呼ぶことを黒子は躊躇わない。けれどその温かさを実感する為に身に染みていた冷たさを、黒子は不幸とは呼べなかった。その冷たさの中に置き去りにしてしまった人がいる。その自覚が黒子を焦らせる。青峰は、きっと自分を必要としていなかった。偶然報われた努力の先で、黒子は青峰の隣に立っていた。けれどそれは本当に一時の夢のような儚い時間だった。すり抜けた先に、黒子に向かって伸ばされていた拳は消えていた。そしてそんな青峰を筆頭に、黒子が勝ち得ていた信頼は崩れて行く。黒子の過失ではなく、相手が自身の能力に照らし合わせて不要なものを切り捨てて行った結果、その不要なものの中に黒子テツヤという存在が含まれていただけ。合理性を追求することは悪いことではない。ただどうしようもなく寂しかった。それが子どもじみた我儘だと思うことで諦めようとも思った。けれど生憎、黒子はどこまでも諦めの悪い性格だったから、できなかった。

「ねえ、青峰君――」

 本当は、僕は――。全てが終わった。WCが終わって、誠凛が桐皇に勝って、黒子の願いは一先ず叶った。取り戻すことは、現状の位置が思い出の中と違い過ぎて難しい。そして黒子はそれを望まない。だからここからまた、始まるのだと信じている。不貞腐れていた時期が長すぎて、流れた時間は積み重なって昔のような純粋な笑顔を浮かべることは難しくとも、バスケを楽しいと思う気持ちは青峰の中にまた芽生えたはずだから。だから、黒子は青峰の背中に向かって名前を呼ぶことができるのだ。勝たなければ示せない存在価値など黒子としては甚だ不本意ではあったけれど、勝者で在り続けるが故に摩耗していく青峰を前にしては相手の土台で決着をつける他はなかったから仕方がない。そもそも黒子は過程を重視する。過程に結果が伴うと信じている。成程、才能とは素晴らしいものかもしれない。けれど、黒子はどこまでも客観的に、自分がそんなものを持ち合わせていないことを知っていた。だから、足掻くしかない凡人の域からただ夢を見て、現実を生きてきた。ひとりでは掴めないものを、誰かとならばきっと、そう己の能力を尽くして走ってきた。
 ――だけど本当は、僕は、たったひとりで君を救いだしてあげたかった。
 それでは意味がないと謳いながら。そんなことは不可能だと理解しながら。どうしようもない我儘な独占欲に過ぎないと自嘲しながら。それでも黒子は、全てが終わった喜びの片隅で悔しさに唇を噛んでいる。
 もしも。そう、もしもの話。黒子がたったひとりで青峰と対峙して、勝利を手にしていたのなら。纏う色が違ったとして、目指すゴールが対極の位置にあったとして、同じ帰り道を歩くことがなかったとして。それでもその背中に、置いて行かないでと飛びつくことが、そんな素直が許されていたのではないかという、想像。

「なあ、テツ――」

 繰り返し、また青峰を呼ぼうとして、しかし先に彼の方が黒子を呼んで遮られた。青峰が黒子の呼びかけに続く言葉を待って返事をしなかったように、黒子も何も言わない。じっと、待った。振り返った青峰は、何か言おうと口を開いては閉じ、もどかしげに頭を掻き、それからうんうんと唸り始める。考えて、丁重に言葉を選ぶなんて、向いていないだろうに。そう思いながら、それでも、そのらしくもないことを自分の為にしてくれていることがわかるから、黒子は笑う。嬉しそうに、恥ずかしそうに、愛しそうに、笑った。ぐるぐると巡る思考は劣等感も後悔も絶えず黒子の背後に忍び寄らせるけれど。背中ばかり追い駆けてきた日々に、苦しいと息を切らして立ち止まりたくもなったけれど。それでも、こんな風に今自分を振り返ってくれる青峰が、黒子はずっと好きなままだから。

「ねえ、青峰君。僕は君のことが、とても好きです」

 青峰の言葉を奪って告げた。青峰は、黒子に先を越されたことに一瞬不満げに眉を顰めたけれど、それからすぐ乱暴に黒子の腕を引いて、自分の隣に並ばせた。黒子の居場所は、今からまた、青峰の隣だ。お互いの不器用さに、青峰と黒子は顔を見合わせて、それから今度は二人同時に笑った。




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笑って。怖いのが、悲しいのが、痛いのが終わったら。そのあとで、また笑って。
Title by『わたしのしるかぎりでは』





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