人間誰しも齢を重ねると涙脆くなると聞くから、黒子は自分にもとうとうそんな時期がやって来たのだろうかと熱くなった目頭を押さえた。日本男児の平均寿命が約80歳と現在の黒子からすれば途方もない長命を彼自身授かっていたとして、半分にも満たない現在では果たして十分に齢を重ねたといえるのか。身近に答えをくれそうな人間がいないことが残念だった。部活の顧問の老教師とは、実は殆ど会話を交わしたことがないのだ。
 とはいえ、実際こんなくだらない疑問を誰かにぶつけてみようなどとは思っていない。ただ、年が明けてから妙に緩くなってしまった涙腺に対する理由が欲しいだけなのだ。心当たりはあるけれど、原因から結果に至る過程がすっぽり抜け落ちているように思えた。手元に広げた文庫本の上に広がった染みを見つめながら、紙が乾いて歪んでしまわなければいいのだけれどと、未だ染み込んでいない水滴を拭き取ることもせずにいた。黒子は、何故だか最近涙脆い。
 在ると言った心当たりは、記憶の中でここ最近で最新の涙の記憶。冬の大舞台、もはや初戦から大一番という試合で嘗てのチームメイトの前に自分の努力と実力が全く通じないと心を砕かれた時のこと。実際には、砕けたというよりはひどく揺らがされただけだった。諦めの悪さは一級品だったので、悔しさに涙を流したけれどそこまでだった。そのはずだが、黒子がちょっとしたことで涙するようになったのはこの試合以降のことだ。感情が昂ぶって顔を歪めて泣くというのではなく、殆ど無意識に、黒子も頬を伝う感触と重力に従って落ちる水滴さえなければ自分が泣いていることになど気付かないであろう程に静かな動作。本を読んで素敵だなと感じたり、冬の夜空を人通りのない道を歩きながら見上げて綺麗だと思ったり、自分の周囲にいる仲間たちを好きだなあと感じ入ったりと理由は様々だ。以前ならば同じような場面に遭遇してもただ気持ちが流れていくだけで、涙など全く流したりはしなかったというのに。頬を伝った涙の痕を放置したまま、黒子は一体自分の身体はどうしてしまったのかと教室の席に着いたままぼんやりと窓の外に視線を向けた。美しい雪景色が広がっていなくて良かった。そんな世界が広がっていたら、きっと黒子はまた泣いてしまっていただろうから。
 呆けていた黒子の意識を呼び戻したのは、耳に届いた乱暴に物を落としたような音。顔をその音がした方向へ向ければ、黒子の前の席に座る火神が登校してきたようで、部活の為に用意された通学鞄を机に放ったのが音の発生源だと知れた。いくら黒子の存在感が薄くとも、明らかに火神が自分の顔を見ているので驚かれることはないだろうと朝の挨拶を告げる。けれど、火神からの返事はなく代わりに彼の表情が驚愕に歪んでいくのを見て黒子もはてと眉を顰める。気付いていない時に声を掛けると、普段ならばもっと大仰に驚かれて怒鳴られる。しかし今の火神は表情だけで感情を表している。態度にも、声にもしない。こういう時、大抵火神は自分の気持ちをどう表現していいのかわかっていない。感情と行動が直結しているが故に、場を繋ぐ仕草というものが出来ないのだ。
 何度か言葉を紡ごうと開きかけた口を閉じるという動作を繰り返し、火神自身もどかしそうに頭を掻く姿に、黒子は段々と気の毒な気持ちが湧いてきて「取り敢えず座ってみたらどうですか」と彼の座席の背を引いてやった。意外にも大人しく黒子の提案を受け入れた火神はどっかりと行儀悪く椅子に座って、目線を黒子と近づけて漸く意味のある言葉を発した。

「また泣いてんのか」
「…ああ、はい」
「通学中になんかあったか、知り合いが気付いてくれなかったか、今手に持ってる本が感動的だったか、どれだ」
「最後の奴です」
「泣くような本なのかよ…」
「とても悲しい話でした。愛が人を労働に駆り立てるんです。けれど労働は必ずしも愛に見合う報酬を与えてはくれない…」
「……悲しいか?それ」

 どうせまた穿った見方をしたあらましを聞かされているのだとは予想がつくが、どうであるにせよこの本には黒子の心の琴線に触れる文章が並んでいるらしい。内容なんてどうでも良い。火神は黒子が泣いているということ自体が耐えられず放っては置けない事態なのだ。
 元々眼を離すと直ぐ姿をくらます迷子癖のある黒子だから、クラスや部活で行動を共にする際は放って置けない存在ではあった。けれど自分の関わる必要がないプライベートの時間に黒子が何を思いどう行動していようとまるで関心がなかったのだ。それが、今ではどこにいたとしても黒子が泣いているかもしれないと思うと火神はどうにも落ち着かない。彼を泣かせるものなどあってはならないとさえ思う。勿論自分が嫌だからという根底を見失ってはいないので、黒子の為だなんて大層な建前を掲げたりはしない。
 きっかけは恐らく冬の大舞台、もはや初戦から大一番という試合で嘗てのチームメイトの前に自分の努力と実力が全く通じないと心を砕かれた時に黒子が涙した瞬間を目撃してしまったこと。実際には、砕けてはおらず試合の後半には再びコートに戻り大活躍だったけれど。それでも、あの試合以降やけに黒子の涙を目撃するようになって、その度に理由を尋ねることも涙を拭うことも慰めることも出来ない自分に火神は心底嫌気がさしていた。どうしてか、黒子の感情の読めない瞳から透明な滴が零れていくのを瞳が捉えた瞬間火神は途端に体中の全神経が麻痺してしまったかのように動けなくなってしまう。

「――火神君、僕は別に…兎に角大丈夫なんで…涙ももう乾いてきましたから――」

 黒子が窺うように紡ぐ言葉を、火神が立ちあがった瞬間に倒れた椅子の音がかき消す。いつもそう、黒子の涙を見つめ必死に身体の硬直を振り払った火神が取る行動は決まっていた。

「火神君!?」

 上手く言葉に出来ないことは、何も言わない方が賢明だ。だから火神は、驚きや羞恥や遠慮から自分を制止しようとする黒子の言葉には一切耳を貸さない。有無を言わさず体格差に物を言わせて黒子を肩に担ぎあげて走り出す。目指すのは、同じ校舎の違う階の教室を拠点にしている先輩たちの所。火神は、彼等ならば上手に黒子を甘やかしてくれるに違いないと無責任な信頼を寄せていた。一人で泣いて、一人で立ち直るなんて釈然としない。だから火神は、自己完結で泣くほどの感情を仕舞いこむ黒子を無理矢理明るい声の元に放り込むのだ。
 構造は自分たちの階と何ら変わらないというのに、やはり流れる空気が違う一つ上の学年の廊下を突き進み、迷うことなく開けた扉の直ぐ近くに目当ての人たちは立っていた。カントクとキャプテンに、挨拶よりも先に抱えていた黒子を突きだす。カントクたちは扉を開ける音に驚いていたけれど、次いで目の前に飛び出してきた部活の希薄な後輩とその後ろにいる憮然とした表情で立ち尽くす火神の顔を交互に見比べて、直ぐに状況を察したようだった。苦笑して、まずカントクが黒子を抱き締めた。無抵抗な黒子の頭を横からキャプテンが撫でる。カントクが「鉄平も呼ぶ?」という問いにはキャプテンが「面倒だから放課後でいんじゃね」とおざなりに答えた。「それもそうね」と頷いて、カントクは黒子から両肩に手を置いた。何せもう直ぐ朝のSHRが始まってしまう。「大丈夫?」とリコが首を傾げて尋ねると、黒子は無言で頷いた。その反応に二人が頷き返したことが教室に戻りなさいの号令だ。火神はもう一度黒子を抱え上げると、先輩の教室の敷居を潜った所で一度振り返り礼をしてさっさと教室に戻って行った。先輩たちはただ不器用な後輩を微笑ましく見送るのみである。

「火神君、毎度僕を先輩の所に運ぶのは何なんでしょうか」
「――うるせえ」
「気遣いですか」
「………」
「火神君の心遣いが温かすぎてまた泣いてしまうやもしれません」
「やめろ、また来た道戻らなきゃならねえだろ」
「いえ火神君の制服の背中で涙を拭かせて貰えれば充分です」
「それの何が充分なんだ」

 自分たちの教室に戻り、黒子を下ろす。クラスメイト達は仲の良いバスケ部員同士としか思わないのか、火神が黒子を担いでいたとは気付いていないのかさほど視線を集めることもない。静かに自分の席に着く黒子の前に、火神も黒板の方を向いて座ってしまう。背中を向けられてしまえば火神はもう自分に言うことはないのだろう。黒子は机の上に放置されていた文庫本を手に取り再び眼を落とした。
 自分を甘やかす先輩たちの感触を、黒子も実は嫌ってはいない。その優しさに含まれる一抹の心配すらも大袈裟だと申し訳なく思う気持ちもある。けれどそれ以上に、先輩たちによって寄越される抱擁だとか頭を撫ぜる手だとかそういうもの全部、本当は彼等の元に黒子を運ぶ火神が一人で自分に与えてやりたいと願っていることも知っている。
 だから黒子は思うのだ。つい先刻冗談に紛らせて放った言葉は嘘じゃない。自分はきっと、いつか火神の愛情に極まって泣いてしまうに違いない、と。




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やさしいって、きみは泣いたな
Title by『ダボスへ』



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