※氷室が未来人なパラレル



「過去は変えられないけれど、未来ならば変えられる」

 きっと漫画やテレビで何度か聞いたことのあるような台詞。己の日常の中では決して口にするような台詞ではないけれど。しかし正反対の意味の言葉だって日常の中で聞くことになるとは思わなかった。

「未来は変えられないけれど、過去ならば変えられる」

 そう呟いた氷室は、苦い顔をする黒子に向かってその端正な顔に麗しい微笑を浮かべていた。

 黒子が初めて氷室と出会ったのは、お気に入りのバニラシェイクを飲む為に帰り道に立ち寄ったマジバでのことだった。好物だったのは昔からだが、高校生になってお小遣いが増えたことと行動範囲に自由が利くようになって以前より立ち寄る機会が増えていた。趣味の人間観察を行うにも道路に面して敬遠されがちな窓際の席を陣取ってひとりバニラシェイクを啜りながら細やかな幸福を噛み締めていた。申し訳ないのは、いつも一人で訪れる黒子の使用する席が四人掛けということだろうか。
 その日も黒子はバニラシェイクを片手に、読みかけの文庫本をテーブルに置いてガラス越しに通りを歩く人々を観察していた。そして黒子が外にばかり意識を向けている間に、音もなく彼の真正面の椅子を引き腰を下ろしたのが氷室だった。気配を気取られないことには自信がある分、察知する方にもそれなりに機微が働く方だと思っていただけに、人間観察を中断して視線を前に戻すまで氷室の存在に全く気付かなかったことは黒子にとって衝撃だった。にこにこと微笑む彼は人当たりの良い言葉を巧みに、混雑してもいない店内で相席を希望する理由を手当たり次第に並べ立てていたように思う。けれど黒子はもう覚えていない。あの日衝撃的だったことは二つだけ。氷室が気配もなく突然自分の前に現れたこと。それからもう一つは、挨拶の締め括りに彼が「俺は未来からとある理由があって君に会いに来たんだ。それがまあ、不自然な相席を希望する一番の理由だよ」と宣言したこと。勿論信じたから驚いたわけではない。信じられないから、氷室の頭の心配をしたという意味で印象に残っているのである。
 さて初対面の一方的な挨拶を済まされてからというもの、黒子は頻繁に氷室と遭遇するようになった。寧ろこれまでも同じ行動範囲内にいたことを認識していなかっただけなのではと自分の視野の狭さの方が迂闊だったのだと疑い始める密度だった。初見の衝撃から身構える部分もあったが、氷室は常識人だった。ただ目的の為には手段を選ばない主義でもあるらしく、黒子との出会いはその手段を選んでいられない状況が突飛な突撃を敢行させたのだと言う。それはつまりどういう意味なのか、黒子には今イチ理解できなかった。
 氷室の言葉を全て事実として捉えるならば、彼は自分との接触に何か目的があるということになるのだが、特別何かを仕掛けてくることも訴えてくることもしない。ただ形骸化した「偶然だね」という頭文句を携えて食事をしたり、買い物をしたり世間話をする程度だ。時折頭は良いくせに変な所で知識不足を発揮したりする辺り、未来人というのも案外本当だったりするのだろうかと、黒子は氷室を十分に受け入れてしまっていた。

「――氷室さんは、本当に未来から来たんですか」

 思わず黒子の方から問いかけたのは、もう夕暮れが宵闇の色に染まる頃。相手の表情も、はっきりとは窺えない人通りの少ない歩道を並び歩いていた時のこと。これまでずっと無関心を装ってきた黒子からの切り込みに、流石の氷室も咄嗟の返答を迷っている様だった。答え自体にではなく、自分の言葉を受けた後の黒子の行動が予期できないから迷ったのだ。
 未来から来たか否か。そこを問うということは、自然何故そうする必要があったのかという疑問もついて回る。それを語れば、話は氷室の事情では済まされず彼の過去、黒子の未来に干渉することになる。氷室が未来に戻った時、多少の影響は行動を起こした時点で覚悟している。だが自分からの干渉の所為で黒子が未来を迷うことになるのは本意ではない。

「――見ていることしか出来ないっていうのは、過去でも現在でも未来でも大差ない苦しみなんだ」
「…………」
「俺は確かに君の言う未来から来たよ」
「先程の言葉が、その理由ですか」
「そうだよ。俺はね、どうしても幸せにしてあげたい人がいた。だから、見ていることしか出来ない自分じゃない。行動で何かを変えられるこの時間に来る必要があったんだ」
「…それは、僕の前にしょっちゅう現れることに関係がありますか」
「―――勿論」
「そうですか」

 氷室の眼を見つめながら話していた黒子の顔が、最後の一言と同時に逸らされた。瞬間、氷室は黒子に自分の真意が伝わらなかったことを悟る。伝わるはずもないけれど、心のどこかで期待していた。テレパシーなんて、氷室の時代になっても超能力に分類される非常識なものだというのに。
 黒子が持っている断片的な情報だけを繋ぎ合わせれば、氷室は未来の自分の大切な人の為に過去の黒子を利用して何かを変えようとしているとしか思えないだろう。事実、その考えは間違ってはいない。ただ、氷室の大切な人が、過去の黒子と別人であると思われてしまったことが、氷室からすれば性急で誤解だと言い募りたいのだが、それはルール違反だ。同じ時間を過ごしていても、氷室の基盤は違う場所にある。それを忘れては、氷室は何一つ目的を達成できない。

「……氷室さんはいつか未来に帰っちゃうんですか」
「そうだね。いつかそうなるだろうね」
「今すぐにでも帰りたいんですか」
「そんなこと聞いてどうするの」

 もしも、氷室が今すぐにでも帰りたいのならば。達成しなければならない目的に自分が関わっているならば。出来る範囲で協力でもしてやる。そう告げるはずだった黒子の唇は、思った通りの音を発することなくまごつくことしか出来なかった。一時限りの出会いならば、もっとさりげなく済まされるべきだった。親しくなる必要などなかった。そう思うのは、黒子の意見と一蹴されれば反論のしようもない価値観の違いだった。けれど明確に利用する為に近付かれたと知りながら、氷室を親切な知人という枠に収めておくにも気持ちが納得しない。思った以上に、黒子は氷室を自分の懐に仕舞いこんで大切な人と扱っていた。それさえも結局は黒子の勝手だと済まされてしまうのだと思うと、途端にやるせない気持ちになってとても氷室の顔を真正面から見つめていることは出来なかった。捨てられるとは大層な物言いになるが、彼がいつか自分に対して行う別れはそれと大差ないように思えるのだ。

「――黒子君は運命の相手って信じる?」
「…何ですか、突然」
「いいから、いると思う?」
「別に…いるかいないかじゃなくて、好きになった相手をそうだと思えるか思えないかの問題じゃないですか」
「うん、俺もそう思う。実際運命の相手がいてその人と結ばれたとしたってそれは単に型に嵌まったってことになるだろ?俺はそういうのはどうかと思う。だけど本気で好きになった人のことをこの人しかいないってくらいの気持ちで想えたらそれが運命なんじゃないかなって思うんだ。――だけど」
「―――?」
「そんな風に相手を想っても、同じように想われるわけじゃない。一番近くにいられるわけじゃない。同じ時代を――生きられるとは限らない」

 一方通行の運命だって、有り得ないとは言えない。暗がりに紛れ込む氷室の口元に浮かんだのは、苦々しい気持ちなど含まない事実を述べただけの微笑だった。黒子は少しだけ、氷室の言葉が理解できるような気がした。
 ――想っても、同じようには返らない。同じ時間にはいられない。
 例えばそれは、どんなに黒子が氷室を想ってもいずれ振り払われることを宣告されていることのような。吹き抜けた風が、お互いの前髪を揺らして視界の邪魔をする。黒子はたった一瞬の遮りに氷室を失うような恐怖を覚えた。慌てて彼の方を見上げれば、そこには数秒前と変わらない光景がある。そんなことで、妙に安心してしまう自分が不思議で仕方がなかった。
 運命の人と信じ込むくらいに想った相手と、氷室は共に生きられないのだと言う。だからその決定事項に抗えない未来から、何かを変えられるはずの過去にやって来たのだと言う。そして氷室は、現在黒子の前にばかり現れる。その意味を、察せないほど愚かしいつもりはなかった。けれど、自惚れに逆上せて舞い上がるほども愚かしくない。どうあがいても、氷室と黒子は添えないという事実にただ納得するだけの言い訳を募らせるだけ。
 いつの間にか空には月が昇り星も輝きだす。吹く風も夜の冷たさを運んでくる。それでも立ち止まった足は動かせない。動き出す訳にはいかなかった。だって「帰りましょうか」なんて言ってしまったら氷室がどこに帰ってしまうのか、未来じゃなくたって黒子は彼の居場所なんて全く知らないのだ。
 そんな黒子の不安を余所に、氷室はただじっと目の前の彼を見つめている。脳裏に浮かぶ愛しい人と違わぬ淡い水色の髪を懐かしいと思ってしまうことが、添えない二人の行先を静かに暗示していた。


「ねえ氷室君、もし僕にこの先何があったとしても、そのことで君が心を砕く必要はありませんからね。君は未来或る若者で、僕は老い先短い爺ですから。子ども扱いしないでくれと言われましてもね、実際年齢がその通りでしょう。だけど確かに君は僕が君の年齢辺りだった頃に比べると随分大人っぽく見えますよねえ。あ、見えるというだけでそうというわけではありませんよ。君の場合はそういう振りをしているって自覚、ありでしょう?大人だってね、物分かりの悪い人間はいるし何もできない窮屈な人間もいるんですから、無理して振舞う必要はないんです。僕ですか?――そうですねえ、割と好き勝手した方だと思いますよ。やんちゃしたわけじゃないので具体的にどう、と説明は出来ませんけどね。でもきっと氷室君の外面には騙されないと思います。――ああなんだか、昔の自分と君を引き会わせてみたくなってきましたね。でもまあ、これは与太話の類ですよ。ねえ、氷室君?」



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ハッピーエンド寄りの悲劇
Title by『告別』




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