※パラレル
※わんこ緑間×にゃんこ黒子



 緑間が泥と煤に塗れた汚らしい子猫を見つけたのは、彼が縄張りとして飼い主から与えられている広大な庭の片隅でのことだった。ぴくりとも動かず、呼吸による身体の膨らみと萎みすら見受けられないその猫は、最初死んでいるのではないかと疑ったほどだった。しかし犬として優秀な鼻を持つ緑間には、一切の死臭を放たないその子猫はまだ生きているに違いないという一点の確信があった。昼間は庭に放し飼いにされているが、夜になると室内に呼び戻される緑間の毛並みは清潔感と美しさで整えられていて、自らそんな汚らしいものに近付くことに僅かばかりの抵抗はあったものの、飼い主に自分の縄張りとして与えられた空間への侵入者を無視するということは犬としての責任放棄に等しかった。緑間はその辺り、非常に真面目な犬なのであった。
 毛先にかかった泥が時間を置くにつれ固まりこびりついている。乾燥した土の匂いのする以外、その猫特有の匂いが嗅ぎ取れず、つい鼻を近づけすぎた。ついでだと、鼻で蹲っていた子猫の顔が見えるように転がしてやる。犬の中でも大型に分類される緑間と、子猫の体格差はかなりある方で、そんな大きな気配が近付いても一向に眼を開かないこの子猫の危機管理能力のなさは逆に緑間が危機感を覚えるほどである。ごろんと効果音が出そうなくらい見事に転がった子猫はどうやら深い眠りに落ちているだけのようだ。汚れているだけで、怪我をしているような形跡もない。首輪もしておらず、野良猫のようだった。ならばやはり、この呑気な態度はいただけない。転がっている場所が緑間の縄張りだったから良かったものの、散歩途中に見かけるゴミ捨て場近辺だったのならば今頃カラスに突かれて泥で身体を汚すだけでは済まなかっただろう。妙な悪運があるのかもしれないが、それでも犬のいる庭で眠りこけてはいけない。良識のない犬の場合、猫と判断した瞬間に飛び掛かるような奴もいるのだから。
 人間の経済力とそれを得る基盤の仕組みなど、犬の緑間には知ったことではないが自分の飼い主は随分裕福な部類に属するらしい。もしくは単に、犬に掛けるお金を惜しまないか、率先して人間より犬に貢ぐことを自己の人間性の優秀さと勘違いしているのか。兎に角、庭に犬用のプールが常備されているということは今回ばかりは感謝できた。緑間はあまり身体が水に濡れるのを好まない。風呂やトリミングのように必ずドライヤーで乾かして貰えることが確約して貰えるのならば迷わず飛び込むものだが自然乾燥に任せるような対応しかしてもらえない庭で水遊びに興じるなど信じられない。犬ながらに不快だと主人に訴える為に精一杯眉間に皺を寄せればどうしたどうしたとその眉間をぐりぐり伸ばされてしまう。常日頃陽気なご主人の姿勢に、何故自分のような生真面目な性格の犬とこの人間が廻りあわされてしまったのかを疑問に思わずにはいられない。ペットショップのゲージの中、いつだって大人しく無駄吠えを控え覗き込み抱き上げる人間たちに適度な愛想を取りだが決して媚び諂うことはせず粗相は用意されたシートの上できちんとこなすという人事をならぬ犬事を尽くして天命を待った結果がこれなのだ。
 子猫の首を加えて持ち上げる。移動して、水が張られたままのプールに落とす。せめて泥だけでも落として欲しかったし、水に落ちれば流石の神経の図太い子猫でも目が覚めるだろうと踏んだのだが甘かった。派手な音と共に水面に激突しそのまま沈没してしまった子猫に数秒の間を置いて、緑間は慌てふためきこのプールを買い与えられて以降初めてこれに飛び込んだ。緑間にすればさほど深くない底も子猫には足も届かないであろうことをきれいに失念していた。深く。
 放り込んだときと同じように首を加えてプールサイドに子猫を落とす。子猫を咥えようと開いた口の端から飲み込んでしまったプールの水が不味くて緑間の機嫌は下がりかけていたが優先すべきことは別にあると、くたりと瞼を閉じたままの子猫の顔を一舐めする。すると、これまで持ち上げて揺らしてもひっくりかえしても開かれなかった瞼があっさりと振るえ、持ち上がった。そして現れたのは、くりんというよりはぐりんと形容されるような大きく無感動な瞳だった。しかしふてぶてしさだけはひしひしと伝わって来て、緑間は直感的に厄介なものが転がり込んできたと察知した。そしてその印象は強ち間違ってはいなかったのである。

「お手数おかけして申し訳ありませんでした。黒子テツヤと言います」
「ふん、そう思うならもう少し周囲の気配に注意しながら眠る習慣を持つんだな」
「努力します」

 子猫にしては丁寧な物腰に虚を突かれ、相手の名乗りに同じように返すことが出来なかった。名乗るタイミングを見失ったことに焦る緑間を余所に、黒子は「緑間君、室内犬じゃなかったんですか」と容易く名前を呼んで見せたものだから、驚いてしまった。聞くところによると、黒子は近所の公園に住み着いている野良猫で、仕事帰りの緑間のご主人によく世話になっているのだという。勿論人間と猫では会話を交わすことは出来ないので、緑間の主人が一方的に話し掛けているだけなのだが気休めに黒子が揺らす尻尾を相槌と機嫌を良くする彼の話題の大半はペットである緑間真太郎という犬のこと。黒子を抱えながら名乗った苗字と緑間という部分が一致していなくて不思議に思っていれば、その方が格好良くて似合っていたからだとも教えて貰った。ペットに苗字から名前を与える人間を、子猫ながらに黒子は初めて見た。生まれてからずっと野良猫で、自分の正確な年齢などわかるはずもなく。もしかしたら幼少期の栄養失調がたたって成長不良なだけで自分はもうとっくに成猫なのではないかとすら思うこともある。のらりくらり、要領よくその日の暮らしに貧窮しない術は粗方身に着けていたので猶更。
 雨が降る公園で、木の根の影で雨宿りをしながらじっと止むまで待っていれば良かった。それでも鳴く腹の虫に勝てずに食料を探し歩き始めてしまったのがいけなかった。傘差し運転でコントロールの歪な自転車の急突進を回避する為に水溜まりに飛び込んでしまい身体は汚れ驚きで跳ね上がった心臓が落ち着くにつれ疲労と眠気が襲う。空腹で力も湧いてこない。それでもせめてと道路の端で眠るのは危険という意識に押され背後の塀を飛び越えて落下。そのまま眠り込んでしまい翌日になって緑間に発見されるに至ったのである。
 呆れながらも黒子の毛繕いを手伝ってくれる緑間は親切以外の何物でもなく。夜になって帰って来た緑間のご主人は愛犬と日頃外で可愛がっている野良猫が並んで彼が庭に続く引き戸を開けるのを待っていたのを見るや爆笑し、事態を正確に把握するよりも二匹を同時に可愛がることを選んだ。ドッグフードしかないからと黒子にミルクを与え、それでも腹が減っている彼は緑間の餌の皿に食事中にも関わらず顔を突っ込んでみたり。結局プールの水では落としきれなかった汚れを落とす為に黒子は風呂に連行された。
 「お湯って温かいんですね」と湯気を立たせながら報告してくる黒子に、緑間は「そんなことも知らないのか」と呆れたふりをして鼻で頭を突いた。自分が風呂に入れられた時と同じシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。


 その翌日、また野良猫に戻ってからというもの黒子は気紛れに緑間を尋ねてくるようになった。主に家の塀に座りながら話し掛けてくる。庭に降り立つことは滅多になく、夕方になると根城としている公園に戻り帰りに立ち寄る緑間の主人に構われたりも相変わらずしているらしい。散歩コースでは公園とは逆方向に向かってしまう為、緑間は自分から黒子に会いに行くことが出来ない。全く身体が成長する気配を見せない黒子は、やはり小柄ながらに既に成猫なのかもしれなかった。雨の日に不用意な行動をした迂闊さは本来の黒子の性分とは離れているらしく、あれ以来腹を空かして行き倒れ直前まで苦しむこともないという。

「お前は本当に気儘なのだな」
「――猫がですか?僕がですか?」
「知らん。俺はお前以外の猫と親しくなったことはない」
「ふむ…。野良は大体気儘だと思いますよ。偶に碌でもない目に会いますけどね」
「それでもお前は野良を好むのか?」
「好むと言いますか、合ってるんですよね」

 数日ぶりに緑間宅に顔を見せた黒子は塀の上で丸くなりながらその下に陣取っている緑間と視線を合わせることなく会話を交わす。陽が当たり気持ちよさそうに微睡む黒子に対し、塀の影が被さっている緑間のいる場は少し冷たい。動物としての生きやすさならば二匹が身を置く光と陰は逆だろうに。
 野良生活について尋ねてきた緑間の意図を察したのか、それとも単に自分の半生を振り返ってそう思うのか。黒子は大したことではないがという風に、言った。

「緑間君には、野良は向いていないと思いますよ」
「――お前よりはうまくやれるに決まっているのだよ」
「どうでしょう?緑間君、優しいでしょう?野良はね、他の面倒なんて見ようとしちゃダメなんですよ」
「―――む、」
「緑間君がこうやってここで飼われてくれていれば僕は君とこうして話すことが出来ます。仲良く出来ます。だからこれでいいじゃないですか。素敵な飼い主さんがいて、広い縄張りがあって美味しいご飯があって。他に何か必要ですか?」
「………」
「でももしご飯が余っているというのなら僕に譲ってくれてもいいんですよ?」
「図々しいのだよ!」
「だって野良ですから」
「他の野良に謝れ!」

 「そういう生真面目さはやっぱり野良には向きませんよ」と微笑む黒子の周囲で、何匹か猫が慌てて走り去る気配がした。きっと今の緑間の怒鳴り声にびっくりしてしまったのだろう。可愛そうに、きっとこの陽気な日差しの元心地よい温もりに包まれて昼寝を満喫しようとしていただろうに。怒らせたのは黒子であるのに、そんなことは知らんと言わんばかりの他猫事である。だってそうだろう、黒子は野良猫で、自分のことで精一杯なのだ。だから何も悪くない。目下黒子のいい加減な物言いに不貞腐れている緑間にじゃれつき甘えるのだって、野良の一人暮らしの中突然訪れた寂しさとそれを埋める優しさが合致しただけのこと。けれどここまで野良猫に優しくしてくれる犬がこの世に存在しているだなんて。
 ――困りましたねえ。
 欠伸に口を開けながら、思う。好きになってしまいそうだと。そんなだから黒子は出来るだけ緑間の縄張りであるこの庭に降り立つことをしないのだ。しかしもし降り立ったとして寒いだとかお腹が空いただとか。適当な理由をでっち上げさえすれば緑間ならばあっさり自分を受け入れてくれそうな気がする。だからどうしていいのかがわからない。
 もうとっくに落ちて消えてしまったはずの、あの雨の翌日に纏ったシャンプーの香りがどうしても忘れられないのだ。




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駄目になる前で良かった
Title by『にやり』




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