ぱらぱらと手元の文庫本のページを遊ばせる。咄嗟に挟み込んだレシートは栞の役目を果たすには薄すぎたようで、黒子はどこから読み始めればいいのかわからない出だしを探している。わからなければ、地道にページを探したって良いし、最初から読み直したって良い。だけど読むのを辞めてしまっても良いような気がした。この本は、黒子にはあまり面白いとは思えなかったから。
 そうだ、栞を買いに行こう。
 黒子がそう思い立って席を立ったのは、そもそも挟んだ気でいたレシートが捲れども引っ繰り返せども一向に姿を見せないからで、挟もうと手を離した瞬間にするりと落ちてしまったのかもしれない。きちんと確認して本を閉じることをしなかったのは黒子の所為だけれど。あれは黒子を怒ったような声で急かして呼ぶ人間がいたからだ。それだって別に、黒子は黒子のペースを貫けばよかっただけの話だけれど、その時だけは珍しく「ああ早く駆けつけてあげなくては」と慌ててしまった。眠っていた赤ん坊が泣きだして慌てて駆けつける母親のように忙しなく、手にしていたものを放り出して、一秒でも早く駆けつけなければそこにはもう誰もいなくなってしまうという競争のように。実際、駆けつけた黒子に寄越されたのは「遅い」という責苦と高圧的な睨みだった。身長差の所為で見下ろされるという感覚の過剰な反応かもしれないけれど、黒子はむっとして顔を背けてしまった。面白くないと思っていた本でも、こうして他人に中断されると如何にも「今丁度好い所だったのに」と主張する様に自分の時間が邪魔されたことを責めたくなる。
 黒子の家に緑間がやってきたのは中学時代からの付き合いであるくせに実際初めてのことで、それでもそれは現在友人関係を結んでいる誰が相手であっても似たようなものだった。だから黒子は友人をもてなすという思考回路が錆びついているのか使用されないまま仕舞いこまれてしまったのか、飲み物を出すということくらいは自分の喉の渇きも手伝ってこなしてみせたもののあとは客人の好きにさせようという姿勢を端から貫いていた。無遠慮に映る態度を日々取っているとはいえ、それは根の生真面目さが起因しているであろう緑間に初めてやって来た他人の家でどうぞご自由になんて権利を与えても全く嬉しくなかったというのに。遊びに行っても良いかと言って約束を取り付ければよかったのに、緑間が探している作家の本を黒子が持っていることが判明したから借りに行くだなんて尤もな理由を拵えてしまったばっかりに黒子は緑間を自室の本棚の前に案内すると自分はあっさりベッドに腰掛けて読みかけの本を開き意識をそちらに集中させてしまった。
 緑間が黒子をさして離れていない距離をもどかしげに声を荒げて名を呼んだのは、単に黒子の不精な態度に拗ねていたからだということを彼は一向に気付かない。緑間自身どこか無自覚な一面があって、それを理解の及ばない場所へ放り出してあいつは苦手だとお互い意図して視線を背けようとしている。ただの傍観者に徹している人間からは、そこまでいうならもっと離れてしまえば良いのにという具合で。
 綺麗に整頓された本棚の中から目当ての一冊を見つけることなど実際容易くて一分も掛からない筈だった。本屋でもないのに作者を五十音別に並べている人間など滅多にいない。高校生であるにも関わらずあまり漫画本もなく本屋の店頭で特集を組まれるような話題の人気作家の作品も少なく本当に黒子が好きな本ばかりが並んでいる場所。読み終わってあまり面白くないと思えばあっさり手放してしまうそうだから、まさしくこの本棚は黒子の好きの塊だった。バスケには到底及ばない、それ以外の場所のお供として黒子の時間を消費する道具。そう言い切ってしまうと味気ないが、間違ってはいないだろう。
「緑間君はこの作家が好きなんですか」
「いや、単に作品のあらすじに惹かれただけだ。他はタイトルも聞いたことがないな」
「そうですか」
 聞かれたことに用件しか答えないのが緑間だ。黄瀬や赤司だったら、自分の好きな作家なり黒子の他のお薦めを尋ねて来るなりして話題を広げてくれるのだが。しかし緑間に彼等と同じようなことを期待していたのならば、それはそれで恥ずかしいことだなと黒子は顔を逸らした。ベッドに置き去りにした一冊を本棚から振り返る形で見つめる。この時の黒子は、次にそれを手に取るときは挟んだレシートを抜き取って直ぐ続きから読み始められると思い込んでいた。黒い布地のブックカバーを被さったそれは、中身の色合いなどお構いなしに真面目な印象を周囲に与えるらしい。読書中の黒子を発見できる人間なんて数えるほどしかいないので、少数意見でしかないことは間違いないが、そういうものかと納得もしている。だから猶更、挟み込んだレシートが薄っぺらく頼りない印象を以て黒子を心配させた。それも、隣で文句を言う緑間に視線を引き戻されてからはあっさりと意識から零れ落ちてしまった感覚なのだけれど。

 行方不明に陥ったレシートはどこにも見当たらないし、きっともうゴミとして捨ててしまったに違いない。けれどそれが何を購入した際に手元にやってきたかを黒子はしっかりと覚えていて、僅かに眉間による皺を人差し指でぐりぐりと押し伸ばした。緑間がやって来るからとコンビニに飲み物を買いに行ってお釣りと共に手渡された紙切れ。
 苛々とまでは行かないものの理不尽な責任追及の念がどこか遠くの緑間に向かって飛んでいく。家に招くのではなくて、どこかで待ち合わせをして届けてあげればよかったのかもしれない。受け取りに行くと言い出したのは緑間の方で、本人がそう言っているのだからと抵抗なく頷いてしまった。それがミスだったのだ。慣れないことをして、緑間は途中からぷりぷり怒っているし黒子の本は再開のページを見失ってしまった。別に大したことではないのだ。ただ栞を買いに行こうと腰を上げて、上着を羽織った瞬間に思い出してしまった。緑間は、自分から借りた本を面白いと思ってくれているだろうかと。興味と期待が満たされる一冊に出逢う方が稀なことで、特に緑間辺りはその基準が高そうだからと、黒子は勝手に決めつけている。
 本屋で購入する文庫本には大抵栞が挟まっているか店員が会計時に挟んでくれるものだが、決まった本屋でばかり買い物をする黒子の手元には自然と同じデザインのものが溜まっていく。そうすると、それまで意識なく使用していたものが急に安っぽく無価値で役に立たない物のように映り込んでしまい、纏めて捨ててしまうことがある。探せばどれか一冊にくらいまだ挟まっているだろうけれど、黒子は既に栞を買うという名目の元家を出てしまった。馴染みの本屋でもチェックしたことはないが、きっと置いてあるだろう。
 そうだ、と思い出して黒子は鞄から携帯を取り出してアドレス帳を開く。決して流暢とはいえない動きで。

『――黒子?』
「もしもし緑間君ですか」
『突然どうしたのだよ』
「この間君に貸した本なんですけどね、あれ、もう読み終わりました?」
『いや、まだ途中だが』
「僕は――、僕はね緑間君。その本がとても好きなんです。だから緑間君にも同じ風に好きだなって思ってもらえたら嬉しいんですけど、それはたぶんお願いできることではないでしょうから、せめてつまらないと思っても頑張って最後まで読んでみてくれませんか」
『……わかった』
「それはそうとね、緑間君。僕、これから本屋に行って栞を買おうと思ってるんです。ついでなので何かお薦めはありませんか。緑間君が一番好きな本、一番でなくても好きだって思った本とかあったらぜひ教えて貰えると嬉しいんですけど」
『――黒子、風邪でもひいているのか』
「失礼な、そんなんで本屋になんか行くわけないでしょう」
『…む』

 電話口の向こうで、きっと緑間は眉を顰めながら眼鏡のブリッジを直しているだろう。ありありと浮かぶ光景に黒子の口元は緩む。緑間はきっと見抜けないかもしれないが、黒子が彼に願っている気持ちは嘘偽りない真実だ。自分の好きなものを、好きな人が同じように好きだと思ってくれたら、それはとても幸せな気持ちになれるに違いない。ただ無理をしてそう思わなければとは背伸びしてくれなくてもいい。ならば告げるべきではなかったかもしれないけれど、そうでもしておかないと緑間は素直に黒子へ感想を伝えてはくれないかもしれないから。変に意地っ張りな性格を真面目と肯定することは出来るけれど、黒子にはそれが出来ない。きっと黒子も似たような個所があるから、意地は一度張ったら相手の妥協を引き出すまで緩められない。そういう性質の二人だった。
 戸惑いながらも緑間が本のタイトルを教えてくれる。不安なのか、何度も「あくまで俺はそう思っただけなのだよ!」と念を押してくる緑間に黒子は律儀に「わかっていますよ」と返し続けた。自分が今彼に貸している本だって同じことだよと納得させて会話を終わらせることはしなかった。それはきっと、緑間をまた拗ねさせてしまうだろうから。自分からは連絡を寄越してこないくせに、こちらから寄越せば実は喜んで会話に興じてくれることを、黒子は薄々と感づき始めている。
 けれど話しながら歩く道のりはいつもより短く黒子を目的地に導いた。「もう本屋についたから」の言葉の後に「先程薦められた本、チェックしてみますね」と添えて通話を終了する。本屋に入店し、目当ての栞よりも先に本棚に向かって歩き出す。目的はもうとっくに入れ替わっていて、一番の目当てとなった一冊を迷うことなく本棚から取り出してレジに持っていく。
 栞はやっぱりまた今度にしよう。
 再開ページを見失った一冊はきっと黒子の部屋の本棚に戻される。そして栞を挟むことなく緑間が好きだといった一冊を夜通しとなっても一気に読み切ってしまいたい。だってきっと緑間も同じように黒子から借りた一冊を今日中に読み切ってしまうだろうから。



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イージーな子
Title by『ダボスへ』



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