伸ばした右手が、意図した場所を触れる前にやんわりと掴まれ包み込まれる。自分のものより少しだけ大きい氷室の掌が伝えてくる温度が心地よくて、黒子はそのまま当初の目的を諦めても良いかなあなんて、そんな相手の思う壺な意識の波に飲まれていく。
 いつもこうだ。二人きりで、触れることは難しいことではないのに、黒子の目的は一向に達成されない。明確な拒絶は示されず、別の場所へ路線を切り替えてしまうようなはぐらしかた。だから意見の衝突なんてしたことはなくて、お互い譲れない一線は断じて譲らない意固地な性格をしているけれどそれ以外のことなら他人に流されることに特別苦を感じることもない二人。テレビのチャンネル権だったり、奢ってくれると言われた飲み物の銘柄だったり、出掛けるか出掛けないかだったり、お腹が空いたか空かないかだったり。「どちらでも」「何でも」「特には」。そんな曖昧な言葉で相手にこっそり決断を投げることを良しとしてきた。それでも、そんな人間関係の中を上手く快適に渡る為に時々場の操作をするように笑顔で自分の意見を捻り込む氷室とは対照的に、黒子はどこまでも流されるまま、存在感すら空気に紛れるように希薄だった。
 そんな黒子だけれど、今日だけは抗いたかった。理由は、なんとなく。

「氷室さん、手を離してください」
「何で?繋ぐのは嫌だ?」
「…嫌じゃないです。でも今僕の手が落ち着くべき場所は氷室さんの手の中ではありません」
「大袈裟に言うなあ…」

 二人きりの部屋。ハニーイエローのカーペットはふわふわしていて、正座している黒子の足の甲に優しい感触を与えてくれる。ソファに寄り掛かりテレビの方を向いている氷室とは違い、黒子は彼の正面にテレビに背を向けて正座している。向かい合っているという体勢で表現すれば済んでしまうことだけれど、間にテーブルを挟んでいる訳でもない、これから何かしようとしていてその為の体勢でもない今の二人の位置はどこか奇異だった。だってこの部屋唯一のテレビは現在進行形でNBAの映像を流しているのだから。黒子はその映像に背を向けるどころか氷室の視界すら塞いでいる。真っ先にそのことを指摘せずに黒子の言動を絡め取って楽しんでいるような氷室だから、二人ともテレビを見ることには何ら重きを置いていないのだろう。それにしたって、だ。
 黒子は、至近距離で握られたままの手を見下ろしている。ぐっと力を込めてみる。氷室の手は微動だにしない。穏やかに口元を緩めているくせに、込める力は全力といった所か。楽しんでいるのだろう。それは生きている以上当然の欲求と権利だ。その楽しみを供給する為にふてくされてしまう人間がいたとしても。きっと今回も、黒子が折れてしまった方が断然事態を前に動かすには早い。だけども膠着してしまった場を厭う気持ちが黒子にはなかったし、前に進むことが今の自分たちに必要だとは思っていなかった。理想形のない、漂うだけの、甘やかされるだけの関係。好きだと言ってくれたのは氷室が先立ったけれど、間髪入れずに「僕もです」と答えてしまった黒子は一年と少しの差に救われながら、あしらわれながらこうして氷室と向かい合っている。「そういえば僕男なんですけども」と今更な確認をしてしまったのは想いを伝え合ってからという抜けたところが可愛いのだと氷室は笑む。黒子は目を逸らす。人間関係に勝ち負けはなくとも上位下位は存在する。恋人同士という自分たちの関係にはあまり望ましくないものかもしれないが、割り振ってみるならば間違いなく自分が下位だと黒子は思う。すると何だか腹が立ってきて、やはり今日ばっかりは引いてやれないと意固地な部分がにょきっと顔を出してしまう。そうなると、瞳に宿る力が随分違うらしい。黒子の表情が変化する様を正面から見届けてしまったから、今度は氷室が困る番。

「…そんなに触りたい?」
「見たいんです」
「――何を?」
「氷室さんの、左目」
「普通の目だよ。右目と同じ物があるだけだ。赤司君みたいにオッドアイとういこともない」
「だったら見せてくれたっていいじゃないですか」

 自由の残っていた左手で、氷室の左目を隠している前髪をどかそうと再び手を伸ばしたものの今度は氷室の右手に阻止される。「むむっ」と眉を顰める黒子に対して、氷室は困ったように眉尻を下げながらそれでも口元は微笑みの形を崩さない。きっと、世間の女性たちが見ていればときめくような甘さを含んだ表情なのだろう。だがきっと、黒子を初め火神や彼と親しい人間が見れば意地悪な色を含んだものだと見抜かれてしまうような笑みだ。
 これまでも何度か挑んで来た氷室の左目を暴くという黒子の目標は今の所達成される気配を見せない。何なら寝込みを襲撃すれば良いのだろうが、それは何となくフェアじゃないしもしかしたら触れようとした瞬間にばっと起きるかもしれない。別に現実離れした真実が潜んでいるとも思ってはいない。氷室の言う通り、前髪の下にあるのは露わになっている右目と変わらないものだろう。だけどそれでも黒子が拘るのは、氷室の弟分である火神やチームメイトである紫原に彼の左目の目について尋ねると「そういえば見たことない」という答えが返ってくるからだ。
 氷室と黒子を結び付けるには、これまで間に誰かを挟んで考えるのが常だった。火神だったり、紫原だったり。恋人という繋がりに他人を持ち出す必要はないけれど、男同士声を大にして言えることでもない。秋田と東京という現実的な距離も問題だった。離れている間に心が揺れるという心配は全く以て存在しない。寧ろその点に関しては氷室の方が気を揉んでいるくらいだ。だが寂しいと思う気持ちには嘘がつけなくて、誤魔化そうとバスケに打ち込んでもそれでは現在の数少ない繋がりを掘り起こすだけで振り払えない。だから他に、氷室と自分の繋がりを感じられる物を探した。出来れば、冒頭に「自分だけの」と付くのが好ましい。真っ先に氷室の左目のことが浮かんだ。だって、過ごした時間の総合量では劣ろうとも、密着具合では引けを取らない自分だってまだ見たことがなかったのだ。バスケの試合で走り回っても、寝転がっても、一緒に風呂に入ったりヤることをヤってる最中だとしても。黒子の記憶内に、氷室の前髪の向こう、その隙間から自分を映していたであろう瞳が映り込んだことはない。だから躍起にもなるし、癪に思ったりもする。秘密を抱えたミステリアスな人間に惹かれるなんて、そんな乙女チックな面を黒子は持ち合わせていないのだ。

「――駄目ですか」
「うーん。どうしてもって言われると困るけど。そうだね、あんまり見せたくないかもしれない」
「……っ、」
「いや、別に黒子君が嫌いだからじゃないよ。好きだってわかってくれてるよね?」
「…はい」
「それから、俺がタイガの兄貴分として生きてきた時間が長いことも」
「――それが何か?」
「たった一年、兄貴分と言うだけで子どもには不相応な期待を寄せられることに悩んだこともあったけど、そうやってタツヤならって頼られて、体裁を取り繕ってきた期間が長いし染み込んでるから。俺は誰に対しても出来るだけ余裕を持って接しておきたいタイプの人間なんだ」
「それも何となくわかってます」
「うん、それでね。…まあ凄くくだらない理由なんだけど」
「……?」
「両目を出すというか、表情を全部露わにしておくと…感情が気取られ易いだろう?目は口ほどにってよく言うし。自己防衛って言えばいいのかな。取りあえずそんな理由」
「―――、」
「まあどうしても見たいって言うならいいよ。見る」
「………いえ」

 折角の申し出を断って、黒子は氷室の首に腕を回して抱き着いた。肩に埋めた頭をぐりぐりと押し付ける。黒子からのこうしたスキンシップは珍しくて、一瞬呆気に取られて固まってしまった。それに、どことなく嬉しそうな気配を感じさせる黒子の様子も意外だった。それが正直に内面を吐露してくれたことへの特別を感じ取ったからだということにまでは、氷室はまだ考えが及んでいない。それでも黒子の行動が嬉しかったので深くは考えずに自身の腕を彼の背中に回す。普段一緒にいるチームメイトたちが大柄なものだから必要以上に小柄と言う印象を受けてしまう。正確には、平均サイズなんだそうだ。
 相変わらず氷室の肩に頭を押し付けている黒子の表情は締まりなく緩んでいる。これ以上舞い上がったら「ふふふ」なんて笑い声まで漏れてしまいそうなほどに。氷室の本音が嬉しかったことは本当。だけどそれ以上に打ち明けられた本音に思ってしまった。たった一つ、強烈に。
 ――可愛い!
 自己防衛と言っていた。それはその壁を破られることへの恐怖があるから。しかしそれ以上に真っ直ぐに開示を迫る黒子の爛々とした瞳への羞恥心。気恥ずかしさを浮かべた氷室の表情が、急速に黒子に彼を近くに感じさせた。「ああ普通の人なんだな」と今更なような失礼なような心象。兎に角、その瞬間黒子の氷室への好きの気持ちが跳ね上がったのだ。
 だから黒子は氷室に抱き着きながらもう一度心の中で高らかに唱えた。
 ――可愛い!
 これはもう、黒子の中の確定事項。



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断定ラララ
Title by『ハルシアン』




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