いつもの帰り道。部活動を終えた、学校の、他のどの部活よりも遅くに歩く、帰り道の途中で、黒子は桃井に会った。それは本当に偶然のようでいて、だけど偶然ではないのだろうと、黒子は思う。だけどやっぱり、偶然なのだと、思い込むことにする。それは、桃井がきっとそう望んでいるからだ。
 陽などもうとうの前に沈みきった、夜に。女の子一人でこんな所まで何をしに来たのか。黒子は、聞いてやるべきなのだろうなと、そう思う。また、青峰君と喧嘩でもしましたかと明け透けに尋ねるのは、野暮というものだろうか。でもそれ以外で、彼女の涙を拭ったことは、たしか無かった筈だから、違ったら少し困ってしまう。今、桃井は決して泣いてなどいないけれど、なんとなく。
 黒子は桃井が好きだった。それは人間レベルの話であって、決して色恋の類ではない。それでも黒子は桃井が好きだったから、決して彼女を無碍に扱ったりはしない。桃井は桃井で、臨界点を突破しない限りむやみやたらと他人に縋ったりするような人間ではなかったから、余計に。

「お久しぶりです。桃井さん」
「うん、久しぶりテツ君」

 形式だけの挨拶。雑な訳ではない自分たちのお決まり文句だ。黒子は久しぶりだと感じているが桃井にとっても同じ感覚が宿っているかは黒子の知る由のないこと。ただ先の会話に入りやすくしておく為の導入句。
 寂しい会話だと思う。でも、離れ離れになってからというもの、黒子は桃井とどう会話していたのかが鮮明には思い出されない。そしてそこで漸く、自分は随分と彼女に気に掛けて貰っていたのだと気付く。淡くふらふらと漂うだけの自分に、本当によく話し掛けてくれて、笑い掛けてくれていたのだ。あの頃、黒子はそれを当たり前のように自分が青峰の影だったからだと信じ込んでいた。自分の存在価値を確かに信じ、だがそれと同時にそれだけだと割り切ってもいた。チームの為に自分が果たすべき役割だけを、必死に果たしてきた結果。本当はそれしか出来なかったのだと、最近になって漸く理解し受け入れた。今更、どうにもならないことだけれど。

「…青峰君と…、」
「うん、」
「喧嘩ですか?」
「うん、」
「…大丈夫ですよ」
「ごめんね」

 ぽろぽろと、涙を零し始めた桃井に、黒子はさして焦ることもなく自身のブレザーのポケットを漁る。普段ならそこにあるハンカチは今日に限ってどこかに置き忘れて来てしまったらしかった。カバンに入っているタオルは生憎部活で使用済みの物しかない。
 無いならば仕方もない。少し遠い距離を一歩踏み出して適度なものとする。そうすれば、黒子の伸ばした腕が桃井の頬へと届くから、そのまま指で彼女の眉尻をそっと拭ってやった。
 中学時代から、そう珍しくもない二人だけの光景。いつからか、黒子は年相応から幾分幼い青峰と桃井の口喧しいやりとりに挟まれて日々を過ごしていた。デリカシーも遠慮もない青峰の、悪気のない本気の軽口に、桃井は感情を左右されていた。そんな彼女を、黒子は緩やかに宥めては事態の収拾に努めた。何故かはもう忘れてしまった。女の子である桃井の涙に、僅かながらも胸が痛んだからか。青峰の部活に対するやる気に水を差さない為か。自分の生活範囲の安穏を保つ為か。たぶん、このどれもが正解だったのだろう。やはり、あの二人は、とても深く自分の中にいたのだと、なかなか止まらない桃井の涙を拭い続けながら黒子は考える。もう、遠いのに、と。

「ねえ桃井さん。青峰君は、桃井さんのこと、きっと凄く大切に思ってる筈ですよ」
「…嘘だあ、」
「本当ですよ。ただ、ずっと一緒だから。桃井さんが当たり前になっているから、貴女のことを、真面目に考えたことがないから、青峰君本人は気付いてないんでしょうね」
「あはは、まあ、付き合いだけは長いから、」
「無くさなきゃ気付けないなんて、駄目なんですけどね」

 自分は、無くしてから気が付いた。チームメイトからの信頼だとか、自分のバスケへの気持ちだとか。当たり前に近かった、青峰や桃井との日常も、全部。きっと、全部好きだった。もう、未練など感じない程に遠い、たった数ヶ月前までの自分達のこと。無くさなければ、気付けなかったし前にも進めなかった。一番欲しかった、仲間や環境を手に入れる為に必要だった。少なくとも、黒子には。だけど、青峰には、無くして欲しくないと願った。昔の彼に戻って欲しかった。バスケも性格も幼なじみに対する態度も。だって、あの頃は彼女を怒らせこそすれど悲しませて泣かせるなんて、いくら馬鹿な君でもしなかったじゃないですかとは、桃井を前には言えなかったけれど。

「テツ君、本当にごめんね」
「…?何がですか?」
「青峰君とのこと、いつも、テツ君には何の関係もないのに…」
「今更です」

 他意はない。呆れたつもりもなかった。しかし桃井は顔を赤くして俯いてしまった。それと同様に、黒子も僅かに目を伏せた。関係ないのにと前提にされたことを、黒子はしっかりと胸に刻む。忘れてはいけない現実がある。距離が開いても揺るがない絆など、自分達の間にはない。ないから距離が開いたのだ。
 いつか、桃井はこうして青峰との諍いを黒子の前に晒すことを止めるのだろう。これは、黒子の予感。そうして本当にバラバラになっていく。青峰と桃井が離れてしまうのか、青峰が桃井の存在についてしっかりと考えて受け止めるのか、理由については考えない。ただ彼等は、些細なことで言い争ったことなど一々記憶したりはしないだろう。こうして第三者を巻き込んだことも、心のずっと奥の底。大事にでもなく仕舞われ埋もれていく。黒子だって同じようにして今を少しずつ風化させていくのだ。こんな夜の出来事もやがて消える。
 それでも黒子は、もし桃井がまた傷付いて自分の前で涙を流したその時は、また無表情で優しく拭ってやるのだろう。だってまだ、彼女がくれた自分の名を呼ぶ声だとか、好きだと抱き締めてくれた感触がちっとも消え去っていないのだから。だから黒子は、まだ桃井を好きで、放っておけない。
 でも出来れば、もう来ないで欲しい。出来れば、もう泣かないで笑っていて欲しい。その為に、黒子は何も出来ないけれど。願うことだけは、止めないことにしている。あの頃も、今も、ずっと。



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その胸の痛みだけは大事にね
Title by『joy』






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