きっと、初めは小さな種だった。蒔いたのは、誰でもなく。水をくれた人はたった一人の愛しい人となった。けれど。その人が水を遣る先に待つ花は、きっと彼女を喜ばせる花弁など広げはしないのだろう。


 年末年始、三が日を過ぎるまでは空港も混み合うだろうからと帰国を遅らせていたアレックスが流石に長居しすぎたとアメリカへと戻ることにしたらしい。
 その旨をわざわざメールで伝えてくれたのはアレックスの滞在中住居を提供していた弟分。見送りに行くかと探るような文面に思わず苦笑する。『行くかも何も、俺はもう秋田だよ』と返すのはあまりにすげなく相手の配慮を踏みにじっていることになるのだろうか。
 別れの挨拶は氷室が陽泉の面子と共に秋田に戻る際に済ませたつもりだ。当たり障りなく、誠凛との試合直後も話せたし、思わぬ乱入者に始終和やかにとはいかなかったけれど詫びることは詫びたし許しも得た。それ以外はまたアメリカに戻って顔を合わせた時にでも思いつくままに語りあえばいい。そう思うのに。距離と時間と金銭を総合してみても見送りなんて行けるはずもないのに。火神からのメールにたった一言『行けない』と返信することが出来ないのだろうか。本音では、確かに近場であればお世話になった恩師が自分と弟分の試合を観戦する為にわざわざ日本にまで足を伸ばしてくれたのだから感謝の意を込める意味でも見送りには行くべきなのだ。氷室自身それが出来たら一番良いと思っているが実際を見れば直ぐにその選択肢は端から不可能だと諦めるしかないことを知る。冬休みはまだ終わっていないけれど部活はあるし、予算も今月と来月辺りの生活費をきりつめればぎりぎり行けるかもしれないが日本の寮生活を初めて一年も満たない為どんな出費があるかもわからない。時間だってそれこそ秋田から東京まで往復何時間費やさなければならないか。見送るという、最悪たった十数分の邂逅の為にだ。
 言い訳なんていくらでも積み上げられることを氷室は知っている。そういう自己完結と誤魔化しは昔から随分と得意だった。けれどそれは見る人が見ればあっさりとばれてしまうような脆い城だった。突き崩されて晒された弱さと、頭を擡げることを良しとせず見下ろしたかった大切な存在に抱き続けた劣等感を氷室は今更恥じ入ったりはしないけれど。沈黙と笑顔で以て否定しないでくれたアレックスにだけは、本当に心底感謝している。ただそれをありきたりな五文字に託すには上手く伝わらない気がしてまごついていたら結局何も言えず終いで東京を後にしてしまった。
 どうしようかと悩む選択肢もないくせにいつまでも返信できないメールを開きながら硬直していると、まるで内容を確認したくせに返事を寄越していないことを見透かした上で急き立てるようなタイミングで着信画面に切り替わる。発信者はやはり火神からだった。これは流石に無視する訳にもいかないなと腹を決めて通話ボタンを押す。WCを終えて秋田に戻ってから通話をするのは初めてだなと考え込む暇もなく電話口の向こうから似合わなくも気遣わしげに氷室を呼ぶ声がして、これはもうばれているんだろうなあと笑うしかない。氷室が、アレックスのことを師匠としてではなく一人の女性として好いているということ。恥ずかしいと隠すようなことではない。だがこれまでの微温湯に浸かりながら叶う見込みがないと諦めるつもりならば隠しておいた方が良いこと。決定はまだ下していない。さて、どうするべきか。

『…タツヤ、メール見たか?』
「ああ。確かにそろそろ空港も混雑していないだろうから帰るなら今頃だろうな。タイガももうすぐ学校だ」
『そういう問題じゃなくて見送り、タツヤ来ねーの?』
「行けると思うか?俺はもう秋田だぞ」
『そうだけど!あー、くそっ!』

 きっと、火神は上手く言葉に出来ない感情をどうにかして言語化して氷室に伝えたくて、問いたくて、怒りたくて頭を掻いているに違いない。それすら見抜いておきながら尚素知らぬふりをする自分は今更ながらに随分と底意地が悪い性格をしているのだなと実感する。そしてそんな自分を兄貴分として変わらず慕い心配してくれている弟分が愛しくもある。だが、同じ愛しいという字面を用いてもアレックスと火神にでは向ける愛しさの色はやはり激しく違っている。
 火神からの言葉を待つ。自分から言うことは何もないよという意思表示も兼ねて氷室からは口を開かない。それをやはり火神は意地悪だと思ったのだろうか。意気地なしと思ったのだろうか。正直どちらでも良い。ただ、氷室がアレックスに抱く感情の気配を察知しながら彼女の傍で自分に電話を掛けていたとは全くの予想外で。携帯から少し離れた場所、そこから紛れ込んで来た聞き間違えようのない声音が段々と近付いて来たことに気付き氷室は途端に逃げ出したくなってしまう。部屋の外に逃げたって意味はない。通話を切るのは一方的過ぎて相手にも不審に思われるから適当じゃない。そうこうしている内に、通話の相手は火神からアレックスに変わってしまった。氷室が抱く恋情など知る由もなく彼を愛してくれる女性に。

『タツヤか!久しぶりだなおい』
「――そうでもないよ、数日前に見送られたばかりだ」
『つれねえなあ、もう直ぐアメリカに帰る師匠に対して!』
「タイガに聞いたよ。俺は見送りに行けないけど気を付けて」
『ああ』

 電話を通して耳朶に伝わる声音が優しくて、氷室は無意識に携帯を強く耳に押し付けていた。縋るには脆弱で実がないものとは思えども。
 弟子同士の決着を見届けることの出来たアレックスには、さほどこの日本を去ることへの未練はないようで。それもそのはずで彼女の祖国はアメリカで実家もまた同じ。地元のバスケットチームの子どもたちもきっとアレックスの帰りを待っている。数か月前までは氷室もアメリカにいてアレックスと容易く顔を合わせては崩せない師匠と弟子の壁に挑もうともしなかった。その憶病さを引きずり続けて今こうして暫しの別離を迎えようとしている。永遠だとはまさか思ってはいない。いつかはきっと訪れるだろう。またアレックスが日本を訪れたり、氷室がアメリカに渡ったりすれば良いだけのことなのだから。

『しかしまああれだな、随分と感慨深い旅になったよ』
「……感慨深い?」
『私の大事な愛弟子が二人揃って立派なバスケットプレイヤーに成長してたんだからな』
「それはタイガの方だよ」
『お前もだよ』
「――――アレックス?」
『タツヤも十分立派だったよ』
「……ありがとう」

 屁理屈をこねる為の会話ではないから素直に受け取った。残酷な現実を味わいながら、それでも立派だと同情からではなく過去から現在を見届けてくれた師匠からの言葉だったから、そうした。きっとこれが、アレックスが自分に寄越す最大の愛情を示す言葉なのだろう。だから氷室は礼を言う。それしか出来ない。欲しい言葉も、伝えたい気持ちも全部アレックスの前では飯事のように幼稚に映るのかもしれない。アレックスの言う立派な成長は技術だけの話ではないはずなのに、不思議なくらい彼女は自分を子ども扱いすることを止めないのだ。そのことに対して試合前の激情に任せなければ抗議できないことが情けないだけ。中途半端な謝罪はまた氷室をアレックスの愛弟子に縛り付ける。

『――タツヤ?』
「…ごめん、ちょっと感動してた」
『お前なあ、こっちはちゃんと本気で言ってるんだからな?』
「わかってるって。そろそろ切るよ、見送り行けなくてごめん」
『別に良いんだよ。永遠の別れってわけじゃあるまいし』
「うん、それもそうだ」
『じゃあまたな。練習頑張れよ』
「勿論、そっちも元気で」

 当たり障りのないやり取りで締め括られた会話が終わり耳には無機質な機械音が響く。微塵も漏れ出すことなくやりきった恋心に氷室はひとり心の中で謝罪する。出来るなら、そのまま枯れてくれないかと願いながら。だけども日常の片隅にアレックスの影を引っ掛ける度、ほんの僅かな切欠でも日陰でひっそりとしおれかけていた恋はあっさりと息を吹き返すに違いない。幼少期からの恋は思いの外根深く氷室を憶病にした。国境すら超える遠くへ去る人に何ひとつ言葉を発することも出来ないほどに。


 きっと、初めは小さな種だった。才能も限界も知らず太陽に向かい丈を伸ばす小さな種。水をくれたその人はとても立派に自分ともう一つの種を育ててくれた。そして今、その人は二つの立派な花が咲いたことを喜んでいるのだろう。だけどその影でその人の手を借りずともひとりでに咲いてしまった花があることを誰も知らない。散ることもなく、太陽の下に出ることもなくひっそりと咲くその花を手折る日を、手折れることを氷室はただ祈っている。



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あなたが知らぬ花だって咲くのです
Title by『春告げチーリン

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