黒子が緑間の一人で暮らしている部屋に転がり込むようになったのは確か大学三年の夏頃からだった気がする。これ以降だと就活やら卒論やらで忙しくなるからと、遅いのか絶妙なのかよくわからない時期だったことを黒子は記憶している。気紛れにやって来る黒子の言い分に、緑間はそれで気遣っているつもりかと随分憤慨していたけれど、玄関で締め出さない時点で手遅れですよとは言わなかった。
 一つしかないベッドで一緒に眠るのは窮屈で。図々しくももうワンサイズ大きいのを購入してくれませんかと要求すれば頭を緑間に鷲掴みにされた。床で寝ろと言われればそれまでで、しかし訪問する頻度が高まればそれだけ態度も軟化し横柄になる。それは黒子にとっても緑間にとっても同じこと。そもそも二人が仲良く揃って布団に入ることなんて滅多になかった。大抵黒子の方が疲れたから泊めてくださいとやってきてさっさと緑間のベッドに潜り込んでしまうから、床で眠るなら家主である緑間が早い物順のルールで行くと圧倒的に不利だった。そんなはた迷惑な侵入者をベッドから叩き落とすこともしないと黒子は知っていて、だからせめてものお詫びにとベッドの端っこで丸まって眠るようになった。寝癖はひどいが寝相は普通なのでこれで邪魔になることはないだろうと思ったのだ。
 だが、朝目が覚めてみると黒子は決まってベッドの真ん中にいる。後から寝て先に起きる緑間の睡眠時間が不思議で仕方ないのだが、疑うべくもなく彼の仕業だろうと黒子は知っている。実際は起きてから真ん中に移動させられているのではなく、緑間が布団に入ったと同時に引き寄せられて抱き枕にされていることに気付いた時には柄にもなく照れてしまった。
 そんな感じに甘やかされて、黒子は緑間の部屋に勝手気ままに居ついていた。

 緑間が大学まででバスケを終わりにすると言ったとき、黒子はそうですかと頷くしか出来なかった。一応理由を問えば結局自分は天才ではなく秀才の域を出られないからだそうだ。ぬかせ、と思ったので黒子は無言で緑間の脛を蹴った。才能を維持する為の努力を、彼は人事を尽くすことと称していた。それが、本当の天才ならば必要ないことと思っているのなら、それは現実から飛躍しすぎた妄想だと黒子は思う。そんなこと、緑間なら十分理解しているだろうに。
 黒子がバスケを辞めたのは、高校を卒業したその日だ。夏の大会を最後に引退し、部活に顔を出して後輩の指導に当たることも特にしなかった。なにせ残せるだけの技量を持っているかというと黒子のそれは彼自身の特殊な性質による所が大きかったので指導のしようもなかった。それでも随分、仲間や友人には恵まれたのだろう。学校も、住む県すらも違うのに、卒業式当日には何故か全員集合したキセキの面々と、三年間苦楽を共にした相棒とで夜までストバスのコートを占拠してバスケをした。チーム分けもへったくれもないものだったが、とても楽しかったことを覚えている。勿論、それを機に一切ボールを触らなくなったということでもない。ただ目標だとか勝利だとか、向かうべき場所を定めて走り続けたり、バスケそのものに注ぎ続けるだけの熱を黒子は失くしてしまった。燃料切れだった。恐らく、緑間の言っていることも結局はそういうことだろう。
 中学から始まり六年間、黒子の中心を占めたバスケを手放したことは随分と彼を途方もない自由という海原へと放り出した。大学へと進学したものの趣味の読書で費やせる時間は短くどうしたものかと思案しながら黒子はあてもなくふらふらと様々な場所へ足を延ばすようになった。国内外問わず、計画も連絡もなく、熱も飽きもなく。世界は広いですねと顔見せが数か月途絶えることもあった。そんな黒子にかつての仲間やライバル達はやきもきし泣き出し心配し。配分なくもう大学を辞めても良いかくらいに構え始めた黒子の襟首を掴んで一時とはいえ落ち着かせていたのは緑間だった。理屈っぽく言葉を重ねてのお説教は思いの外黒子には堪えたらしく。それから三か月はおとなしく日本に留まり黄瀬や桃井に目一杯振り回されていた。そんな最中に、黒子は緑間の部屋に遊びに行くのではなく住みつくようになったので、周囲は最後まで責任もって面倒見なさいとおかしな烙印を緑間に押していた。


 一般企業への就職を早々に決めた緑間に対して黒子は就活にあまり身を入れていなかった。というよりしなかったというのが正しい。どんな伝を使ったのかは知らないが、黒子はいつの間にかルポライターの卵として活動するようになっていた。無意味な徘徊で音信不通になっていた頃とは違い、仕事だからと海外へ出掛けていく黒子を引き留める術を緑間は持たなかった。心配だった大学もなんやかんやと要領よく必要単位を取得して、四年の後半には全く学校に顔を見せなかったほどだ。大人になって生きていく為の手段と身を置く環境は必ずしも理想を貫ける物ではない。どちらかを定めれば強制的にどちらかを限定的にしなければいけなくなる。黒子が定めたのは、手段の方。移ろいだ身を置く場所に未練もなさそうに行ってきますと出て行ってしまった黒子が恨めしくないかと言えば緑間には言いたいことのひとつやふたつあるのだが、何一つ上手く言葉にして伝えてやることは出来なかった。まるで自分が寂しがっている様で釈然としなかった所為もある。勝手に住み着いて勝手に出ていくのならそれも良いだろう。そう諦めて居直るのが、一番自分を安息に守れる立場だと思っていた。新しい世界に出て変わっていくのは、何も黒子だけではないのだ。緑間には緑間の生活があってその為に諦めた物がある。それが一つ増えるだけの話だと思いたかった。
 社会人になった緑間は大学生の頃と変わらず同じ部屋でひとり暮らしていた。職場からもそれなりに便が良かったし、引っ越しの費用を捻出するのも面倒だった。貯蓄がない訳ではないが、何の不満もない部屋から金と労力を費やして移動するなんて無駄だと思う。何より、社会人になっても気紛れにこの部屋を宿代わりにする輩がいるものだから、最終的に緑間は物件を探すことすらしないのだ。いつからこんな甘くなったのだろうと首を傾げても答えは出ない。無意識に緑間が甘やかすようになった人間は一人だけなので、その本人にでも聞かない限り永遠に答えは出ないのだろう。
 数か月ぶりに緑間の部屋にやってきた黒子の様子は最後に会った時と何の変化もなかった。世界中を渡り歩いている筈なのに、逞しくなった印象もないしかといって疲労困憊にやつれている訳でもない。屋内でバスケをしていた頃と変わらず日焼けしていない肌には黒子の現在を探るヒントは全くない。心配なのか、訝しみなのか分からない感情を隠しもしない緑間の視線に気付いたのか、黒子は一言体質の問題だと言い放ち、最近はアフリカの方面を回ってきたんですと静かに話し始めた。

「ガーナ、マリ、エチオピア、スーダン、コンゴ、ルワンダ、ケニアとかあとキリマンジェロとかナイルも見ましたよ。割と東西南北関係なく好き勝手移動してました。英語が通じると思ったらフランス語だったりスワヒリ語だったり、場所によっては全然聞き取れない民族語だったりするんで色々大変でしたよ。クーデターとか内乱とかで国がひっくり返ったりすることもありますからね。何回か死ぬかと思いましたが取りあえず何とか生きてます」
「………」
「こうして日本に帰ってきて、緑間君と言葉が通じて本当に良かったと思います」
「日本人同士なのだから当然だろう」
「まあそうですね。でもいつか僕が全然日本に帰らなくなって、君や…みんなと過ごした日が段々薄れて…君の輪郭も曖昧になって言葉すら覚束なくなったら……まあ笑って流してください。それだけ忙しくて充実した日々を送っているということだと思うので」

 もしもですけどと後付して、黒子は微笑んだ。その笑みが少しだけ寂しそうに見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。だから猶更、緑間は己の目敏さに嫌気がさす。寂しさなんて見つけなければ、悪い冗談だと会話のネタで終わっていた仮定はやけに現実を帯びて部屋中の空気を重くさせた。それを黒子も感じ取っているから、やはり緑間は自分に甘いと、寂しげな微笑みを苦笑に変えられる。

「僕があまり日本に帰ってこなくなっても国籍を捨てるつもりはないので偶には帰りますよ。――だから、」
「……なんだ?」
「あの二人で眠るには窮屈なベッドは残しておいてくださいね」
「寝床恋しさに帰ってくるつもりか」
「そうですね」
「図々しいにも程があるのだよ」
「それはだってほら、君ですから」
「どういう意味だ」

 濁した言葉の先を促す緑間を苦笑のままで誤魔化して、黒子はもう思い出としか呼べない記憶を手繰りだす。
 緑間はきっと知らない。一人眠りにつく寂しさも。一人目覚める空しさも。彼が残しシーツの熱はいつだって微弱で皺を増やして縋ってもとてもかき集めきれる物ではなかったから。待つことは得意ではなかった。詰まったようで結局埋められなかった距離感が心地よくて、黒子はいつか離れてもそれが自然だという付き合い方にしか行き着けなかった。言葉にしたこともないから、緑間の本音など知る由もないけれど後悔はないと思う。放浪の果てに辿り着く場所ではなく、途中で立ち寄る場所であればいい。それが今の黒子の精一杯の愛情の表し方だ。お互いの気紛れで簡単に途切れてしまうような関係の繋ぎ方。縋るにはあまりに弱々しいものだと、きっとどちらも知っているから依存とは程遠い気楽な気休め。
 緑間から離れ異国で目覚める一人の朝に、早々に慣れ切ってしまった自分に落胆したりもしたけれど、そんな時に黒子は思ったのだ。自分は思った以上に彼のことが好きだったのだと。


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じぶんの学問に生きてください
Title by『ダボスへ』





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