朝目が覚めたら目の前に見慣れた、だが自分と同じ屋根の下にいるはずもない顔があった。ぼんやりとまだ霞がかった眼と思考で、ただそれが目の前にいるという事実だけを理解して、黒子はのそりと起き上がった。自分のベッドの上で窮屈そうに眠っているそれ――もとい紫原敦については放置することに決めた。驚くだけ朝から疲れるばかりだから、まずは毎朝苦戦する寝癖直しに取り掛かることの方が先決だ。
 洗面所に向かえば既に両親が使用し終えた形跡がある。洗面台に置かれた小さなデジタル時計が示す時間は既に彼等が仕事で家を出た後だと教えてくれる。きっと、紫原をこの家に招き入れたのは両親か、またはどちらか片方か。どちらにせよ碌なこっちゃない。無意識に顰められた顔の自分が鏡に写り込んでいる。
 重力に逆らいながら上に向かっている髪の毛を戻そうと百均の霧吹きに入れた水を吹きかける。因みにこの方法、部の合宿で実践してみせた所、絶不評だった。特に監督が、水なんかで寝癖矯正をするんじゃないと怒られた。髪質的にもさらさらと細い黒子の髪をまるで女の子の様に大切に扱うものだから、黒子はその合宿の間だけ監督に頭髪の管理を任せきった。そうして自宅に戻り、黒子はまた水で寝癖を戻すようになった。髪のことなんて、最低限の身嗜みを維持していればどうでも良かったので。
 しかし今朝の寝癖はなかなか手強い。霧吹き如きでは太刀打ち出来まいと、水道から水を出して手のひらに救いそれを髪にかける最終手段に訴えた訳だがどうやら分量を見誤ったらしい。ぽたぽたと毛先から落ちる雫にまた顔を顰めて、面倒だが仕方ないと黒子はドライヤーを取り出して髪を乾かし始めた。
 そして、その耳元の轟音に紛れて気付けなかったのだろう。自室で寝ていた、図体のデカい余所者がいつの間にか起き出して部屋を出て来ていた。鏡越しに、眠そうに目をこすりながらリビングに向かって歩いていく紫原を見て、黒子はああそうだったとも、随分我が物顔で歩き回ってくれるものだとも思った。もしや本気で寝ぼけていて、彼の自宅と錯覚しているのだろうかとも思ったが、生憎黒子は他人の家を寝起きに徘徊したことがないので何とも言えない。
 リビングに行けば連なってキッチンにも行ける。朝食を求めて冷蔵庫やら戸棚やらを漁られたら流石にそれは不躾過ぎて不快だ。なので黒子はドライヤーを止めてそのまま後ろを通り過ぎた紫原を追ってリビングへと向かう。案の定、彼はリビングを素通りしてキッチンへと向かっている所だった。

「紫原君、ここは一応僕の家なんで好き勝手出歩くのやめて下さい」
「んー、おはよー黒ちん」
「おはようございます。君、家に来る前に朝ご飯食べてきましたか」
「食べてなーい。あんまり早く食べても昼までもたないでしょ?」
「あんまり早く余所の家に来ても迷惑ですよ?」
「…黒ちんのお母さんはどうぞどうぞって入れてくれたのに…」
「ああ、母さんに入れて貰ったんですか…。そりゃあ母さんは面倒な相手はしなくて良いんだし、僕の友達だとでも言えば入れちゃいますよね…」
「朝から手厳しいね」
「朝から君が非常識だからです」
「えー、でも…」
「ああもういいから黙ってじっとしてて下さい」

 黒子に行動を制された紫原は、直ぐ近くにあった椅子に座って、頭をテーブルに乗せて怠そうに黒子の言葉に応じている。そんなに眠いなら自宅のベッドで目一杯寝ていれば良いものを。お互い朝から時間の無駄ではないかと愚痴を零しそうになるのを寸前で止める。言うだけ無駄だろう。
 むにむにと図体に似合わず幼い仕草で微睡んでいた紫原が、視界の端にずっと映っている黒子に、不意に手を伸ばして髪に触れた。
 咄嗟のことで、動きとしては緩慢だったそれを、黒子は叩き落とし損ねた。しかも黒子の嫌いな、普段の頭を撫でる手付きでもなかったので、何だかどうしようもなかった。

「黒ちん寝癖ついてる」
「ああ、直してる途中でした」
「直ってないよ?」
「だから途中なんです。今日のはちょっと頑固なので手を焼いてるんですよ」
「ふーん、諦めれば?」
「嫌です。だらしないじゃないですか」
「気にしすぎだよ」

 男の身嗜みなんて、学校の指導が入る日以外は適当で良いではないか。女子のように、制服であっても化粧やら、スカート丈やら髪型やらを気に病む必要はないだろう。黒子は特に。
 黒子の寝癖で跳ねた髪を弄りながら紫原の腹の音が鳴った。途端に呻き出す彼に、黒子は仕方ないですねと呟き、そんなんじゃあいつか路肩でぶっ倒れますよとぼやきながら彼に朝食を振る舞ってあげることにした。彼の髪に触れていた手を解いて冷蔵庫を開ける黒子の背に返ってきた、黒ちんは中学時代体育館でぶっ倒れてたよねという皮肉には今でもぶっ倒れてますよと開き直っておいた。
 トースターに食パンを二枚セットして、冷蔵庫にあったマーガリンと苺ジャムとピーナッツバタークリームをテーブルに出しておく。卵を三個取り出して、開封済みのハムの枚数を確認したら丁度三枚残っていたのでハムエッグを作ることにする。軽いサラダは母親が用意しておいてくれたらしいものが既にテーブルの上に小皿に盛られている。
 てきぱきと調理の支度を始める黒子の背をぼんやり眺めながら、紫原は訪問の理由を未だ告げていない自分をこんな風にあっさりもてなしてしまうからいけないのだと、視線を背中からトースターへと移した。
 朝っぱらから黒子の家に突撃したことに大した理由なんかない。ただいつもより大分早くに目が覚めてしまって、唐突に黒子に迷惑を掛けたくなったのだ。こんな思考回路こそが迷惑極まりないとは自覚しているが仕方なかった。もしかしたら覚えていないだけで夢で黒子に嫌なことをされたのかもしれない。つまりこれは仕返しなのだと言い張っても、当然黒子を納得させることは出来ないだろう。それならば黙って、余所で朝食を食べたくなったのだなんて、自分らしく食べ物を動機にしておいた方が無難に違いない。

「……黒ちん、ゆで卵以外のもの作れるの?」
「人に食べさせようと思わなければそれっぽくは作れますよ」
「それ俺は大丈夫なの?」
「君に文句を言う権利があると思わないで下さい」
「…ちぇー」

 振り向きもせずフライパンと格闘している黒子に、目玉焼きは半熟が良いなんて注文を投げるのはやめておく。取り敢えず、出て来たハムエッグがどんな悲惨な見た目でも黙って平らげてあげよう。それはもう、彼女が初めて彼氏の為に作った手料理が不味くとも完食し、自分の為に作ってくれたことが嬉しいのだとオブラートに包んで全力で誤魔化すが如く。それくらいの愛情なら、紫原はちゃんと黒子に対して持っている。本人には全く伝わらないけれど。
 完成する前から失敗前提の失礼な紫原の気持ちを余所に、黒子は淡々と調理をこなしていく。その頭では、まだ直っていない寝癖がぴょこんと跳ねている。それが少しでも黒子が動くと合わせて揺れるのを観察しながら、紫原は待ち時間の暇を眠気へと変換し、段々と瞼が降りてくるのを感じる。
 そんな紫原を叩き起こすように、トースターのパンが焼けた音が二人きりのキッチンに響いた。


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だって一緒にいたいじゃない
Title by『Largo』




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