髪を切って欲しいのだと、桃井が黒子の下を訪れたのは、丁度黒子が夕飯を食べ終えて今日図書館で借りてきた本を読もうとしている時だった。言い換えれば、まだ何もしていない時間帯だったので、黒子はさして彼女が自分を訪ねたこと自体やタイミングにとやかく物思うことはしなかった。ただ鋏を手に夜の街中や住宅街を練り歩いてここまで来たのかと思うと、色々と危なかったろう。その辺りは、桃井のことだから抜かりはないのだろうけれど。
 ただ、普通の鋏一本を手にして玄関前に立っている彼女の姿を自分以外の誰かが目にしたらやはり色々と危なかった。にこやかに微笑んでいる彼女は、光の加減によってはそれは恐ろしい画となっていただろうから。
 まあ取り敢えずと桃井を中に招き入れ、リビングにいる両親に中学時代の友人が訪ねてきたから部屋に上げる旨だけを伝えて洗面所に立ち寄る。洗面台の下の棚から梳き鋏と散髪用のケープを取り出して自室へと向かう。先に部屋に通していた桃井は久しぶりの黒子の部屋に上機嫌だったが、時間帯を考慮してか大人しく座って待っていた。

「すいません、ベランダでも良いですか」
「うん、突然ごめんね?」
「いえ、暇でしたから」

 椅子を一つベランダに置いて、そこに座るよう桃井を促す。キャスター付きの椅子は散髪するには些か向いていない気もするが、黒子の部屋にはこの一つしか椅子はないのだから仕方ない。取りに行って、散髪するからと説明するのも長くなりそうだから億劫だ。何せ黒子は美容師なんて専門家ではないのだから。

「…引き受けておいて何ですが、僕割と不器用ですよ」
「知ってるよ!」
「………」
「あんまり気にせずに後ろばしっと切って良いよ!」
「ばしっとですか…」
「…やっぱり数センチくらいでお願いします」
「了解です」

 桃井が持ってきた鋏を受け取って、彼女の後ろに立ち長い髪を一房掬い上げてみる。ふわりと届いた香りは、きっと彼女が愛用しているシャンプーのものだろう。無頓着な黒子には、その銘柄まで特定することは出来ないが。
 毛先もあまり傷んではいないので、黒子はどうして髪を切ってしまうのだろうと悩み、それは桃井の勝手だと真っ当な結論に落ち着いた。では何故自分の下に来て散髪を求めたのか。それは彼女に聞かなければ解決出来そうにないけれど、たぶん後回しにした方が良いのだろう。答えなければ要求に応じないなんてこともないのだから。
 しゃく、と鋏を入れれば桃色の髪がはらりと落ちた。細いそれらが灰色のコンクリの上にはらはらと散らばり落ちていく様を追いながら、新聞紙でも敷いておくべきだったと気付くが今更だった。
――しゃきん、しゃきん。
 なるべく桃井を不安にはさせないように、ざっくり行ったと思わせないように小刻みに鋏の音を立てる。長さも不揃いにならないように、黒子なりに頑張ってみる。あまり切りすぎなければ、失敗しても美容室に行けば何とかしてくれるだろうという保険もあって、黒子は意外にも気負わずに桃井の髪を切り落としていた。

「テツ君は明日部活?」
「そうですよ。まあ午後からなんですけどね」

 一言二言きりで途切れていく会話と、重力に従い落ちていく髪の毛が絡まり合って少しだけ場の空気が息苦しい。話題性に乏しいのは、実はお互い様なのだろうけれど、黒子は桃井の為に場を和ませようと話題を探すような人間でもなかった。かといって、相手が提供した話題に乗っかって会話を楽しむような人間でもない。基本的に、黒子は非社交的であった。
 そして黒子はそんな自分をしっかりと認識した上で、自分を取り巻く人間の殆どが対局なタイプだと思い込んでいた。光だとか影だとか、もう拘るつもりはない。だけど性質を分類する言葉としてそれを用いるならば黒子は間違いなく自分を影だと言い切れたし、逆に桃井のことは光だと思っていた。バスケでは色々と主義主張もあるけれど、その他のことに於いては流されるままを良しとしてきた。対人関係なんか、特に。

「…青峰君は、ちゃんと練習に参加してますか?」
「うん、最近は自主練までするようになったのよ」
「それはよかったです」
「……そうだね」
「――すいません」
「え?何で?」

 失敗してしまった。黒子はそう、話題のチョイスの面で桃井に謝りたかったのだけれど、たぶんこの場面で失敗なんて言えばまるで髪を切りすぎてしまったとか要らない勘違いをさせて余計な会話を増やしてしまいそうだったから、黙った。
 一度鋏を動かす手を休めて、全体的な長さのバランスを確認する振りをしながらぎゅっとキツく目を閉じた。そして浮かぶ青峰と桃井の姿に、一体どちらがどちらに付随しているのかを問い掛ける。勿論返答などあるはずもない。
――拭えない。
 瞑っていた瞳を開ければ真っ先に桃井の髪が当然視界に広がる。黒子の部屋から漏れ出る蛍光灯の白と夜の影が混ざり合った髪色は黒子の知っている色名では何とも表現しようがない。
 青峰の話題を出すつもりはなかったのだと弁解するのは、僅か数分の経過しかなくとも今更な気がした。禁止されている訳でもない。だけども、桃井がひとりで自分を訪ねてくる度に、きっとまた彼から離れたくなって、でも離れたくないから自分に背を押してもらいに来ているのだと思っていた。だから、今回もきっとそうなんだろうと予想して迎え入れたのに。
 これまでとは違い、悲しそうに顔を歪めることも、涙することもなく穏やかに微笑んでみせる彼女に、黒子は今まで感じたことのない胸のざわつきを今更になって覚え始めた。

「テツ君?終わった?」
「――え、あ、はい」
「そう、ありがとうね!」
「いえ。やっぱり怖くてあんまり思いきっては切れませんね」
「そっか。ごめんね、でもすっきりした」
「それは良かったです」

 ケープを脱いで、下に散らばった自分の髪を目測しながら、桃井は黒子の言葉通りあまり長さに露骨な変化は見受けられないことを確認している。
 男子にいきなり女子の髪を切れだなんて頼む方が無茶なのだと桃井も自覚しているから、その出来映えには敢えて言及はしない。ついでに、いきなり自分が黒子の家に髪を切ってなどという要求を携えてまで会いに来た理由も言わない。なんとなく、黒子自身思ってくれる部分があるようなので。

「桃井さん」
「ん?」
「やっぱり髪を切るなら美容院に行った方が良いですよ」
「…うん、そうだね」

 やんわりと、突き放された気がした。桃井の心境に察するところはあるけれど、踏み込まず目の前の事実を利用して上手い距離感を保とうとしている。黒子にとって、今までは青峰という存在が桃井との距離を測る基準だった。彼の幼馴染。彼のお目付役のマネージャー。そんな認識だった。
 だけど、青峰を引き連れずに立つ桃井と自分の関係を、黒子は今この瞬間からでも認めるよう突きつけられた現実がある。直ぐには出来ない。黒子は自分に積極的に寄ってくる人間が苦手で、経験も乏しかったから。
 桃井を見る。彼女は後ろ毛を弄りながらご機嫌そうに鼻歌を歌っている。どうやらお気に召してくれたらしい。ほっとしたのも束の間、黒子ははっとした。自分が彼女の髪を切ったという事実に青峰がどう思うだろうと考える。どう思われても良いのだけれど。
 桃井は、自分から青峰に報告はしないだろう。彼が気付かなければ、これは自分と彼女だけの秘密。仮に青峰が気付いて尋ねれば、隠すことなく全てを話すのだろう。黒子にとって桃井を認識する上で絶対であった青峰に、二人だけの時間があることを認めさせる。それはきっと、背中をつつかれるようにして、黒子が誰も介さずに桃井と向き合わなければならない舞台の完成ともいえた。
――随分追い込まれてますね。
 他人事のように分析して黒子はまた、今度はそっと目を閉じた。
 桃井のことが嫌いな訳はない。二人で出掛けたこともある。特別な思い出がある訳ではないけれど、邪険にするような嫌な思い出だってないのだ。だから、先に進む必要もないと思ってきたのだが。
 にっこりと微笑んでまた礼を言う桃井に微笑み返しながら、黒子はさてどうしたものかと思案する。相手はなかなかに手強い。一先ず道具を片付けてお茶でも用意しよう。それからあまり遅くならないように彼女を送る道すがらにでも答えを出せば良いだろう。答えを直ぐ後に先送りにして、黒子はケープや椅子を手にベランダから室内へと戻る。後ろに続く桃井の気配が当然ながらに近くて、黒子は訳も分からずに焦り、片付けをしてくると言ってそのまま部屋を出た。
 この家に招き入れた時点で負けだったのかもしれない。未だ桃井に向ける気持ちに整理は付けられないまま、それでもきっと自分は彼女を意識せずにはいられないという予感と込み上げる気恥ずかしさに、黒子は廊下にうずくまって堪えた。


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微熱の疾走
Title by『にやり』




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