ヤムライハの初恋はジャーファルである。思い出で、記憶で、情報でしかなくなった断片に朽ちて行けどもそれはただ事実でしかなかった。現在の彼女の異性の好みを考えれば、僅かに年長ではあれども意外なことに変わりはない。しかし初恋を迎える以前から異性の好みが凝り固まっているという事態も珍しい。そして恋は好みに照らし合わせて操作できるものでもない。初恋であれば尚更のことである。

「あまり意固地になってはいけないよ」

 言い聞かせるように、ジャーファルは言う。昔は反論していた。悪いのは私ではないのだと。私に突っかかってくるシャルルカンが悪いのだと。幼い喧嘩の仲裁に入るジャーファルの瞳の色に、細心の注意を払いながら。しかしそんな少女の意思など、訓練された人間には簡単に欺かれてしまうものであった。尤も、ジャーファルが、手の掛かると疲労から呆れを訴えることはあっても嫌悪を過ぎ、無関心に落ちることはなかった。だから、そんな真剣にならなくても、気に病むべきは幼い少女と少年の関係が修復不可能な程に割れてしまうこと、それだけだった。
 兄のように慕えればよかった。しかし自覚を伴って初恋だと取り上げてしまった気持ちは、彼女の不器用な性格と相俟って埃を被って奥へ奥へと眠りについた。今では好きな人とは緊張して上手く話せないヤムライハでも、相手がジャーファルであれば違った。それまでの時間が手伝ったこともある。そして、ゆっくりと時間を割いて二人が話し合う機会というものもそう高頻度で訪れるものではなかった。何せ忙しい人だった。王の政治を支える上でなくせない人だった。武力での戦力ではなく、政治力でもカウントされるジャーファルという存在は、二歳の齢の差、過去の経歴、現在の位置を総じて彼女よりもずっと早熟に大人になってしまった。
 事態を正しく認識する能力は必要だ。魔法を正しく生み出す為に、術式を組み立てる為に、この世に見えざる、だが確かに存在する真理を解き明かす為に。物分りが格段いいしおらしい娘ではなかったが、過ぎ去る日常がヤムライハに訴えてきた空気。この恋は、打ち明けないが良いだろう。ジャーファルとの一対一の関係が、その現在が幸せに満ち満ちていたわけではないが、変わるべきでない穏やかさを孕んでいることはわかっていた。打ち明けて、拒まれない方が信じられない。ヤムライハは、恋の成就の為に必要な働きかけなど一切行っていなかったから。結局、個人の幸せよりも王と国の幸せの為に政務に励む彼と同じように、彼女も恋より魔法を重きものとみなしていた。それだけが事実として、ヤムライハを傷付けることなく静かな恋の終わりを促した。

「また喧嘩だって?」

 彼にしては砕けた口調。年下の、それなりに気心の知れた相手。言い含ませるほど幼くはない。だがまだまだ大人にもなりきっていない相手への親しみ。畏まって、敬語で、人前で諍いを晒さない内心の不満を募らせても個人の情ならば殺せと、そんな政治みたいなやりとりを求めているのか。ヤムライハはジャーファルの年長者としての振る舞いが時々寂しくなる。
 昔とは違うのねと嘆くには、何が、どう具体的に変化したのか言葉にできない。昔から彼はこうだった。私生活以外での能力は高いのに、どうしてか苦労性で、頼りがいがあって、逆に迷惑を掛けなければ彼の方から歩み寄ってくることはないような、優しいだけの遠い人。
 ヤムライハとて大人になった。幼少より天才魔道士と呼ばれて、その道では一人前の扱いを受けることもあったが、肉体と精神の成長も齢から大きく外れてはいない。ただ人付き合いには相性というものがあって、魔法と剣という、相反する要素が絡まって、どうにもシャルルカンとは諍いが絶えないだけだ。それが齢を考えればもう少し二人とも落ち着けと言われてしまうことはわかる。当人たちだって、顔を合わせるまではやりあう気など微塵もないのだ。

「派手に引っ掻かれて、涙目でしたよ」
「シャルルカンですか?」
「彼じゃなければ君が引っ掻くなんてありえないだろう?」
「う…別に、わざとじゃないんですよ!?」

 両手に大量の書類を軽々と抱えながら、偶々見かけたヤムライハに声を掛けたのだろう。自分に遭遇するよりも先にシャルルカンがジャーファルの元に駆けこんで愚痴をこぼしたのかと思うと腹立たしいが、彼を甘やかす人ではない。職務中、偶然一悶着過ぎた後のヤムライハとシャルルカンに遭遇しただけ。初恋を閉じた日から、期待も頭をもたげない。忙しい人と遭遇する、その偶然の価値も光を失っていく。

「君たちはどうにもお互い意固地というか――素直じゃないねえ」

 細められた瞳。剣呑ではない、慈しみ。真正面から向けられたその光線を、ヤムライハは瞼を降ろして遮断した。記憶の隅々で、そう、二年の差で降る愛情の模造品を知っている。恋とは程遠い、シンドリアという国の中、ひとりの王に忠誠を誓った、救われた、この先も違えることない場所に友と呼べる者がいる。けれどジャーファルを友と呼ぶ日は、ヤムライハには訪れないだろう。この人は遠い。思い出の中で微笑む彼と、目の前の彼は違う。けれど、実際変わったのは彼女が彼を見つめる想いの方で。何一つ変わることなく王に尽くしてきたこの男は、一度たりとも彼女に期待を持たせるような、か弱い少女を庇って責苦を負うような不始末は致していないのだ。酒を呷ったとしても、きっと我らが王よりはずっと理性的なのだろう。それは、ヤムライハにだからこそ正しいこととして映った。幻を見たのは、自分の勝手だと。
 素直じゃない。そうかもしれない、けれど。ジャーファルが疑い、期待している邪な情は、自分とシャルルカンの間には一切横たわっていないことだけはわからせてやりたかった。せめて最後まで無関心なまま、愚かしい偶像を眺めていたいのだと、ヤムライハは唇を噛み締めた。



∴すこしずつすこしずつあなたは架空になっていくけど(恋しがる胸は血と肉のままだから)


20130401