病床に飾る花を選ぶ心はいつだって重い。バリエーションが広がらないのは気候の所為か、人間の感性か。だからといって他者に委ねる気にはなれなかった。直接手渡す勇気を持たない花束を届けるのはヤムライハの役目ではない。傍らで、アラジンが待っている。何も問わず、昨日のお花はとてもいい香りだったよと教えてくれる。そうだったの、と花を選んだ身であるにも関わらず、ヤムライハは呟いた。香りも、形も、感触も、どれも記憶に残っていない。美しかっただろうか、その花は。美しいものは果てるから、好きにならない方がいいだろう。幼心に誓っていた忠誠が、その向かう先が、刻々と散る時を待つように。けれど彼女は、毎日花を選び、手折り、アラジンに持たせる。踏み込めない一室の扉の前まで送り届けてやる。薄い扉の向こうで身を横たえているドゥニヤに対面する勇気は、ヤムライハにはなかった。

「まだ枯れていないのに、日替わりというのも勿体ないねえ」

 そう言いながら、部屋に置かれた花瓶に花を活けるアラジンをドゥニヤはただ見つめた。ならばもう花を寄越さないよう、あの女に言って頂戴とヒステリックを起こすことはしない。日々変わる花瓶の花の贈り主を、ドゥニヤはアラジンの口から知らされていた。趣味が悪いとは言わないが、やはり専門職ではない、普段花々に興味を持たないヤムライハの贈るそれらは所々に不格好が目立った。美しいものを見て育ったドゥニヤには猶更。

「いつも水を替えてくれてありがとう、アラジン」
「――うん、」

 礼を述べる前に、わざわざその振る舞いを指定すること。対象者を限定すること。開かれない心の扉。ヤムライハを拒む鋼鉄の門扉。憎悪を一身に背負わせようとは思わない。だが信ずるに値しない。要素がない。否定の言葉ばかりが容易く積み重なっていく。今も変わらず天才の冠に恥じることない優れた魔道士であるという。その事実が忌々しい。きっと、何もかもが彼女の責ではないと、理性では判断している。しかし感情が追い付いてこないのだ。運命を呪うと決めたあの瞬間から、国を取り戻すという執念、その激情に囚われてきたドゥニヤに今更過去の因果の切れ端を燃やして差し出された善意に感謝して死んでいけという方が酷だった。
 昨日活けたばかりの花を花瓶から抜き取って、ドゥニヤの食事の皿が乗っていた盆に置く。いつの間にか用意されていた、水を張った盥に浸けているのだから、きっと直ぐに捨てるわけではないのだろう。実際どう処理されているのか、ドゥニヤは知らない。そして恐らくヤムライハも。
 興味はなかった。あのおぞましい学院の手先に違いない女の手折った花。どれだけ否定されてもちらつく仇敵の幻影がドゥニヤのヤムライハに対する態度を険悪にさせた。露骨な豹変に縮こまるヤムライハは、ドゥニヤが王族であることを肯定させた。臣下の礼を崩さないが故、もうムスタシム王国再建の望みを失ったドゥニヤにはその姿勢が滑稽で嫌味にも映る。ひどい被害妄想だと、取り戻した心が痛むのはいつだってひとりきりの夜に暗闇が広がってから。

「ねえおねいさん、おねいさんは花が嫌いかい?」
「――いいえ、好きよ。とても綺麗」
「うん、そうだね」
「見ているだけで、充分よ」
「……そう」

 ドゥニヤが目を伏せて、アラジンもそれに倣う。報われて欲しいと願うほど、二人の女性の溝に深入りはしていない。分かり合って欲しいとは思うけれど、実際に必要なのは彼の助力ではない。必要なのは、憎しみを超えて現在を見据えるだけの時間。そしてそれだけが、どうしても手に入らないものだと誰もが知っている。日々衰弱していくばかりのドゥニヤ自身でさえも。迫る死という事実の目撃を恐れて、顔を伏せて、花を選び、託すばかりのヤムライハが痛々しい。魔法の師匠として、嬉々として語り、凛と揮い、揚々と微笑む彼女を見てきたアラジンには意外なほど小さな姿だった。
 頑なに口を開かず、ヤムライハを見、嫌悪とも憎悪とも呼べる視線を投げただけで彼女を崩落させたドゥニヤもまた、運命を呪い泣き暮れたか弱さを湛えた女性であったのに。それが王族と臣下の間にあるべき忠誠心の拗れだとは、アラジンは説明をされても理解できなかった。

「ねえおねいさん、僕は思うんだ」
「――――?」
「この花たちが綺麗なのは、ヤムさんが選んだからだと思うんだ」
「…違うわ」
「そうかな。おねいさんの為に、その為だけに摘まれた花だもの。綺麗じゃない筈がないよね」
「……アラジン、」
「昨日のお花はとてもいい香りだったよ」
「ええ、そうね」

 知っている。飽きるほど眺めていたから。アラジンが去ったあと、花瓶を手に持ってみたりもしたのだ。花弁には絶対に触れなかったけれど。それは、身動きの取れない不自由と退屈を紛らわす、室内唯一の景観の変化の所為だと思いたい。決してこの部屋の敷居を潜ろうとしない女の自分への想いとはいかほどのものか。手厳しく拒んだのは自分の方。それなのに、不満ばかりを募らせて、測りあぐねた距離感を鬱陶しいと腹を立てるなんて子どもじみている。

「アラジン」
「うん、何だい?」
「活けかえた、昨日の花はいつもどうしているの?」
「別の花瓶に移し替えているんだ」
「それはどこに飾っているの?」
「おねいさんの部屋に飾られていた花を、だから、一番大切にしてくれる人のお部屋だよ」
「――――そう」

 この子どもは、偉大な力を持った子どもは、優しい。救われるほど、大仰なことではなく。根本的な解決にもならない、向き合うことのない大人の女ふたり。挟まれて、悠々とやってのける優しい所作。
 何も残してはやれないだろう。ドゥニヤはそう思っている。誰に、何を残したいのかは定かではない。ただ朽ちるだけ、大ぶりの花弁がぼとりと落ちるように、養分を無くした花弁が萎れて行くように、避けられない死がドゥニヤを待っている。ヤムライハは悲しむだろうか。そんな想像は傲慢に思えて、彼女は慈しむように葉を撫でるアラジンをじっと見つめた。
 彼の指先をなぞって、葉を、花弁を撫でたなら。いつかその花が帰っていく場所に、声にならない想いが届いたりしないだろうか。そんな、ドゥニヤに都合よく動く世界などないと知っていても、それでも。
 報いてやればよかったなんて、そんなことを想いながら死にたくはなかった。



∴貰っておけばよかったものと、捧げておけばよかったもの(悔いてしまいたくなります)



20130401