幸せの形とは。きっと、筆を持って絵にすることはできないけれど、文字にするならば過去の二文字になるのだろう。無知は幸せだ。同時に愚かしさの象徴で、無力と連なり白龍から何もかもを奪い去っていく。そう、悔恨と決意が現在に至るまで彼の背を追い立てている。それでも強さと幸せは同一ではないのだと知っている。力と心を強さで測ったら、どちらに比を置くべきか白龍は迷う。どちらも、そう選べたらその通りだろう。ただ己の不器用さを心得ているから、まずは力が必要だった。心など、目に見えないものはいくらでも押し殺せる。幸せだった、信じていた、愛していた。そんな甘ったるい世界に裏切られ捨てられた日から、白龍が纏った、白龍を覆った闇はどこまでも冷たく、鋭利な牙を研ぐことを本懐とし、何一つ救ってもくれなかったし、救わせてもくれなかった。そしてそれが、まだ自身が弱いという何よりの証拠だと思い込んでいた。


 優しい人に出会った。強い人に出会った。自分よりも年下の、少女だった。名をモルジアナという。愛想のない瞳は、時折雄弁に白龍を混乱させた。うちとけた態度を見たことはある。しかしそれは白龍の眼前ではなかった。時間と経験によって培われる信頼というものは、まだ白龍とモルジアナの間には嵩を持たなかった。
 身の上話ほどつまらないものはないと思っていた。打ち明けて直ぐに少しだけ、余計なことを語ってしまったと思った。けれど、聞いて欲しかったのも事実で。対等の言葉を返して欲しいと願ったわけではない。しかしモルジアナが語ってくれた彼女の、ファナリスという一族の話は白龍を戸惑わせた。咄嗟に夢を語るような希望的観測を広げて見ても、どれほど彼女の心に届いていたか、それは定かではない。
 ただ、礼と共に添えられた笑顔が眩しかった。それは彼女が背負っていた太陽の所為などではなく、白龍の揺さぶられた心が彼の網膜をまやかした。それは温かい幻覚で、真実だった。真面目と不器用を共存させて、読めない彼女の表情がどれも愛おしく思えるのは、白龍だけが彼女の抱く感情の支配下にいるからだ。

「――モルジアナ殿?」
「白龍さん」
「何をされているんですか?」
「――星を見ていました」
「星ですか」
「星です」

 会話を膨らませることは得意ではなかった。アリババやアラジンがいなければ、愉快に笑い声を響かせることもできない。相手に窮屈な思いをさせていやしないだろうかという不安。女々しいなと自嘲を連れて、それでも二人きりという状況に胸を躍らせる、どこまでも少年の初心を残している白龍の、これは初恋だった。
 ――夜。就寝前まで鍛錬を怠れない性分に、与えられた客室まで戻る道すがら。見つけたモルジアナはひとり空を見上げていた。星を見ていたという声を辿り、白龍も夜空を見る。広がる星々は、恐らく見事だと感嘆して差し支えないのだろう。美しいと思いながら、隣に佇む少女に意識を引きずられていては明確な区別もつかない光の点に過ぎないようにも思えた。
 静かな瞳だった。力強さを湛えた瞳が瞬きすら惜しむように空を凝視していた。何か落ちて来るのかと問いたくなるほど、真面目な立ち姿だった。無邪気に点を繋いで形を作り、物語を編むようなことはしない。正確には、知らないだけであるが、白龍はそんな風にモルジアナを決めつけることに気後れを感じて、都合よく、彼女の方から何か語りかけてくれないかと、そんなことを願い始めていた。

「もう直ぐ出発ですね」
「――そうですね」

 モルジアナの唇から紡がれたのは、僅かに白龍を落胆させる言葉だった。芽吹きを自覚した恋が、離れ離れという困難に直面する、その対策など講じることなどできる由のない白龍には哀しいとしか言いようのない、現実。
 白龍の声が、正直に沈んで響いたことに、モルジアナは驚いたように彼の横顔を見た。表情からは汲み取りにくい、モルジアナの優しさに満ちた性根は直ぐに彼女の過失を探らせたが、ただ事実を一言確認しただけの言葉にどれだけの影響力があるものか、彼女にはわからなかった。
 モルジアナがもう少しだけ、慢心とも呼べない、自分という存在を自惚れることができていたのなら、彼女との別れを惜しむ人間が目の前にいることを仮定できたのかもしれない。だが奴隷として生きてきた年月が長すぎるモルジアナの性格は真面目が過ぎて、自身を楽しませる短絡的な思考回路を有していなかった。卑屈でないだけ、強靭だと言っていいだろう。それは美しさと讃えられてもいいほどだったが、モルジアナに、異性として恋心を抱く白龍には、己の強さに固執する彼には酷にすら映るのであった。

「――星は、」
「………?」
「星は、見る場所によって違うんだそうです」
「…そうですね。具体的にどこ、と言われると俺も詳しくはありませんが、煌帝国のものとは、このシンドリアから見る夜空は違う気がします」
「私、知らなくて、それで暗黒大陸に行く前にきちんと見て置こうと思ったんです」
「―――、」
「でも、そうなんですね。煌帝国の星空も、とても綺麗なんでしょうね」
「……どうでしょう。俺には、シンドリアのこの星空の方が立派に思えます」
「立派、ですか?」
「空気が、澄んでるのかも」

 最後の言葉はでまかせだった。単に、モルジアナの前で、無意識に祖国を思い気持ちが禍々しく歪んでいく気配に慌てて誤魔化そうとしただけ。しかし抱える憎しみの所為だとして、この国の夜空の方が立派に見えるという意見には変わりがない。立派ではなく、綺麗と言えばよかったのだと気付く。薄暗い謀略と組織の影。輝きなど見せかけだと知る白龍には、バルバッドの件もあって快い心象など抱けるはずがない彼の祖国の星空を綺麗なんでしょうと柔らかく言葉を選んだモルジアナこそが綺麗なのだと、そう言ってみたかった。そんな度胸は、ありはしないけれど。
 数日後には訪れる別れを思えば、怯んでいる場合ではないのかもしれない。さようならだって、笑って言えるかどうか。健やかな、友人にもなれる気がした。モルジアナだけではなく、アリババとアラジンも含めて、そんな夢を見ている。有り触れた、人間と人間が出会い、正しく付き合うという形を見つけた。けれどそれを、白龍は決して幸福なことだとは思わない。それは白龍の中で過去にしか存在しないものだ。

「モルジアナ殿」
「はい、」
「―――いや、なんでもありません」

 お元気でとは、まだ唱えないが良いだろう。少なくとも、この夜空がまた南国の太陽に照らされる明日はまだ自分たちは友として顔を合わせることができるのだから。そんな場の繋ぎが、如何に儚くか細いものであるか、知っていたとしても、白龍は、祈るように星を見た。




∴健康を祈ります、幸福を祈ると崩れてしまいそうなので(幸福とか安寧とかって、何もかも終わってしまったみたいでしょう)


20130401