昨晩床を共にした男の香が強烈過ぎたせいで朝からピスティの機嫌は悪かった。帰ったばかりの商船が仕入れてきた新作だとかで、なかなか値が張ったと自慢げに語る男に彼女は早々にうんざりしていたのだが、愛想のいい笑顔を浮かべたまま「へえ」と何度も相槌を打った。ピスティは香よりも布の方に興味があり、また新しい服を作ろうと思っている。柔らかくてしっかりしたものがいい。こんな退屈な話をする男よりも、新しく織られたばかりの布地に包まれる方がよっぽど魅力的。ひとりで行くのは退屈だけれど、ヤムライハはここ数日忙しいようで、シャルルカンは飲み仲間としては楽しいが服を買いに行く相手としてはどうだろう。臍を隠してさえいれば何でもいいとほざきそうだ。
 もしもだけれど。ヤムライハが卸したての服を披露したとする。普段は化粧気がない彼女を、ピスティがうっすらと飾ってあげるのもいい。けれどシャルルカンが先のような失礼な言葉を吐いたとする。彼女は顔を真っ赤にして怒るだろう。昂じて泣くかもしれない。彼は謝らないのではなく謝れない。次々に余計な言葉を吐きだす。周囲の人間はシャルを庇わない。だけど攻撃もしない。マスルールはもしかしたら彼に辛辣な言葉を言うかもしれない。そしてとうとうヤムが杖を取り出したら。そうしたら誰かが慌ててジャーファルを呼んできてシャルはお説教される。
 ――うん、完璧。
 ピスティが胸中の想像で、大好きな友人らを遊ばせて想像おかしさに微笑むのを見て勘違いした男の饒舌は益々止まる気配を見せない。とうとうピスティは不機嫌に羽毛の柔らかい枕に顔を埋めてしまった。耳が腐ってしまうとすら思ったから。そこから男の賢明なご機嫌取りが功を奏して、男女の営みとやらは済ませたもののピスティの心は既に此処にあらず。日が昇る前にさようなら、二度と声をかけないでねと部屋を出た。退屈極まりない夜だった。

「どうした、ピスティ」
「あれ、スパルトス、今日は船の護衛じゃないの」
「一昨日大きな船団が到着したばかりだ。今の所数日間は予定はない」
「ああそうか、そうだったっけ」
「――えらく気分が悪そうだな」
「気分じゃないよ、機嫌」
「そうか」

 スパルトスが一人でバザールを歩いているなんて珍しい。いつもなら好奇心に任せて探り、突いていただろうが生憎今日は気分じゃない。部屋を出てからも、強烈過ぎた、好みでもないあの男の香がピスティの身にも纏わりついていることが不快で仕方がない。水浴びも着替えも済ませたが、記憶に刻まれた匂いが消えない。もしかしたら身体や髪からも拭えていないのではと思うと自然眉も寄る。どこまでもつまらない、独り善がりな男だ。
 偶然出くわしたピスティの不機嫌を、改善しようとも理由を知ろうともしないスパルトスは少しの逡巡。目的地がないピスティに対し、彼もまた外の空気を吸うための散歩の足が時間の余裕が手伝って伸びすぎただけだった。切り詰めた、従順な、敬虔な生活が好ましい。自己を律することに苦痛を覚えず、日々の信仰は順調だった。主や友は皆彼の信じる教えを同じように信じてはいないけれど、理解はあった。その上で扱いづらい、付き合いづらい、生きづらい彼を友人として引っ張り回そうとしてくれる内が華なのだ。そんなことはわかっている。
 そんな頭の固いスパルトスの手を一番に引っ張る、快楽に従順な、懐っこい、見てくればかり可憐さを際立たせている少女が珍しく覇気がない。活気に溢れる市の往来で、普段の快活さを知る者、知らずとも八人将のひとりと気付く者、ピスティをピスティと見れば明らかに目立つ不審。他人の視線を集めるのは得意ではない。だから、彼女の予定は知らないけれど、いじけているならば予定があるというよりも済ませた結果だと想像して、細い手首を掴んで歩き出していた。落ち着いて、活気が遠ざかる場所を探して。

「ジャーファル殿に叱られでもしたか」
「――違うよ?叱られるようなことはしたかもだけど、バレテないもの」
「また男を引っ掛けたのか…」
「うん。でもハズレだった。自分の話ばっかりうるさくて、匂いキツイし、退屈」
「そうか。どちらにせよ、程々にな」
「男の自慢話って、どうしてあんなに長いんだろうね」
「―――、」
「スパルトスはこんなに静かなのにね」

 比べる対象にすること自体、無礼だ。ピスティも頭の片隅で理解している。ほんの僅かな色仕掛けに落ちる男と、真っ直ぐな芯を持った男では語る土台が違うだろう。スパルトスは何も言わない。不快だとも言わない。思ってすらいないのだろうか。彼自身が、彼の信じる教義に恥じる振る舞いをしなければ、他は世の流れの中に許容されるものなのだろうか。ピスティにはわからない。彼女に触れる男たちの肉欲は手に取るようにわかるし、あしらい、操ることもできるのに。スパルトスはきっと、彼女からすれば清らかな、眩しい何かだった。そんな彼に気遣われること、迷子のように手を引かれること、全てが申し訳なく思えた。けれどへりくだってはいけないのだ。だって、ピスティとスパルトスは友であるはずだから。少なくとも、その関係は、対等であることを前提としている。

「――ごめんね」
「何がだ?」
「スパルトスのこと好きだなあって思って。だから迷惑掛けちゃうのかなあって、ね」
「よくわからないが、迷惑とは思っていないから気にしないでいい」
「ふふ、ありがとう」
「ああ」

 どこまでも善意の中にある言葉。正義でなくてよかった。もしそうであったら、ピスティは咎められていたかもしれない。彼女はただ、彼女に不自由のないよう大らかに生きていたいだけ。それでも。
 迷惑に思っても構わないから、好きだと言い募らせて欲しいと願うことは罪ではないはずなのに、相手がスパルトスであるというだけで、ピスティの胸に湧き上がるのは間違いなく罪悪感だった。




∴わるい子だったわたしはわるいおとなになりました(謝らないといけない人は増えるばかりです)


20130401