迂闊だった。足元の注意を疎かにして転倒するなど中学生にもなって情けない。オトヒメは唇を噛む。堪えたのは擦り剥いた膝の痛みか、ひとり転倒した恥ずかしさか、それとも――。
 オトヒメはジンを慕っている。熱烈な感情は恋と憧れの分別を必要としない。数年前、世界大会の舞台で活躍し、世界の危機でありLBXを愛する全ての人たちを救ったミゼル事変の英雄でもある海道ジン。テレビ越しに瞳を輝かせながら見つめていた彼が、オトヒメたちハーネスの司令官として紹介された日のことを彼女は片時も忘れたことはない。感動と衝撃が渦巻いて、歓喜の鐘が鳴り響いた。この学園に在籍していること自体が、実力あるLBXプレイヤーの称号だった。その称号を失わないこと、同じ称号を持つ人間たちの中に埋没せず誇り高くあること。それだけがオトヒメの自我であり戦い。けれどそれだけだった日々が一瞬にして塗り替えられた。ジンに認められること、彼の為に力を尽くすこと。使役されることすら厭わない、矜持は恋と共に従属を選んだ。ただ、それがオトヒメの意志であること、ジンに歪められたわけではなかったことがせめてもの自立だった。ジンはいつだって、年齢にそぐわない冷静な眼差しでオトヒメを含むハーネスの子どもたちを自身の生徒として誇っていた。そこに特別はないと、敏いオトヒメが気付かない筈がなかった。
 海道ジンは先に述べた経歴を理由にかなりの有名人であった。それ故に、ハーネスの司令官に就いていることは然るべき時を迎え公表するまではドルドキンスというコードネームを徹底して欲しい。ジンからの指示は的確に、論理的だった。仲間を犠牲にする戦い方はさせなかったし、小国である自覚と生徒たちの実力を正確に把握しながら大国であるアラビスタ同盟軍に善戦できたのもひとえに彼の指揮官としての技量がいかに優秀であったかという事実を証明している。だからだろう、ジンの要求に生徒たちは素直に従った。確かに自分たちの司令官の情報が出回るのは好ましくない。ただの教員ならば他の生徒たちの関心はまちまちだろうが、あの海道ジンが司令官とあれば余計な詮索に乗り出す輩も少なからずいるだろうと判断したのだ。
 だがオトヒメはひとり頑なに「ジン様」という呼称を使い続けた。勿論、他仮想国の生徒がいる前では口を噤んだが、そもそも「ジン様」と呼べないような環境では彼の話題を出さないというような頑なさであった。スズネなどにいたっては細かい呼び訳はうっかり情報を漏らしてしまう可能性を危惧してかジンと話すときもドルドキンスと呼ぶこともあったし、似たような方法を取る生徒は他にもいた。だが恐らく、オトヒメがジンをドルドキンスと呼んでいる声を聞いた人はいなかっただろう。オトヒメにとって、ジンがハーネスの司令官であることは重要だった。しかし他の仮想国との駆け引きは意味を持たなかった。自分たちの司令官が海道ジンであること、彼を自分が慕っていること、それだけが彼女の心を浮足立たせる幸せの要素であった。


 迂闊だったのは、足元の注意を怠ったこと。それから、珍しく教室の外で見つけた彼の人の背に駆け寄ろうとしたことと、愚かにもその名前を呼ぼうとしたこと。慌てて口を塞ぐも、そのせいで傾ぐ身体を立て直そうと同時に反射神経を駆使することはできなかった。ジンが後方のオトヒメの気配に気づかずに行き過ぎてくれたことは彼女のプライドの高さから見れば幸いではあったが、破れてしまったタイツと膝から滲む血と砂汚れはどこまでも彼女を絶望的で惨めな気持ちに叩き落とす。
 それでもここが学園で在る以上じっとしているわけにもいかない。誰も見ていないことを確認で来たら、保健室に行って傷の手当てをして貰い呼びのタイツなり靴下なりを拝借して、制服の乱れを整えて教室に戻ろうと考えていたのに。大丈夫かなんて差し出された手は、オトヒメから言わせれば間違いなくお節介であった。しかもその相手が、オトヒメがかつて辛酸をなめさせられた人物であれば尚のこと。

「――白牙ムサシ…」

 彼の小隊の異名、ホワイトフォックスはアラビスタ同盟軍の中でもエースプレイヤーである白牙ムサシが所属する隊として有名だ。全校集会でもSC高額獲得者として表彰されており顔も割れている。何よりオトヒメは彼の小隊の罠にはまり三日間身動きを取れない状況に追い込まれたことがある。あの時のことを思い出す度に屈辱としかいえない感情がオトヒメの内側で燃え上がる。ジンは自分たちを助ける為に、別の拠点制圧に乗り出していた第一、第二小隊を呼び戻してオトヒメたちの第三小隊の救出を優先させた。セカンドワールド内で守られる存在になることほど勝手の悪い存在であると突きつけられることはない。あの時、彼女はジンという司令官の指示通りに動くこともできない弱き者だった。それは、オトヒメにとって――神威大門に籍を置くLBXプレイヤーにとって屈辱としか言えない。それでも、守られたからこそ次を誓えることを理解していたからこそ失敗を踏まえ同じ轍を踏まないよう心掛けてきた。しかし件の小隊と再び相見える機会は訪れないまま今日までやってきたわけだが、まさかセカンドワールドの外で一方的な因縁の相手に遭遇するとは思わなかった。
 案の定、ムサシの方はオトヒメが誰であるかわかっている素振りは見せないまま、声を掛けた途端視線を険しくしたまま動かないでいる彼女に首を傾げるのみだった。さっさと差し伸べた手を引っ込めて欲しいと願われていることを察してくれればいいものを。

「……助けは結構ですわ」
「――そうか」
「みっともないですから、あまり見ないでくださる?」
「いやすまない」
「謝罪も結構、…ねえ貴方――…いえ、やっぱりなんでもありません」
「ふむ?」

 埃を払い、人の善意すら振り払う。他人の受け入れ方など様々だ。けれどこの学園では、より厳選することが求められる。小国の結束は固い。大国の威信も余裕も知らない。ただ見下されることだけは我慢がならないから、オトヒメは逃げることはせず瞳だけで意思を示した。転倒したことを見られたことを恥じるのは後でいい。どうか追いかけようとした背中の主を見咎められていませんように、それだけがオトヒメの祈りだった。
 詫びておきながら、ムサシの視線はオトヒメから一向に逸らされない。服の汚れはある程度落とせても、膝の痛みと傷を負ったという感触は処置をしなければ長引くばかりだ。さっさと保健室に向かいたいのに、真正面からの視線を無視しては敗走を喫したようで癪だ。年上と理解しながら、属する仮想国が違えば睨みつけることに遠慮はいらない。不躾なのは、ムサシの方だという確信さえあればオトヒメは屈しない。

「その制服――ハーネスだな」
「それが何か?」
「最近手を煩わされているものだから、意識せずにはいられないだけだ。気分を害したのならば謝ろう」
「ですから謝罪は結構です。どいてくださる?なかなか痛いのですけれど、脚」
「血が出ているな。よし、保健室に向かうか」
「――は?」
「急がないとウォータイムに遅れてしまうぞ」
「はあ…」

 敵国の人間を品定めする鋭い視線を送っていたムサシの表情と張りつめていた空気が、オトヒメの膝の傷を捕えた瞬間嘘のように霧散した。オトヒメも思わず間の抜けた声を発し肩の力が抜けてしまう。何を自然に同行するような物言いをしているのだと指摘するよりも先に、ムサシがオトヒメの手首を掴み歩き出していた。

「ちょ、なにを…!」
「保健室に行くんだろう」
「ええ、わたくし一人で行きますから手を離して!」
「そう怒鳴ると視線が集まるぞ」
「貴方とこんな風に歩いている方がよっぽど目立ちますわ!ハーネスとアラビスタだなんて…保健室には日暮先生がいらっしゃるんですのよ!?」
「保健医が生徒を仮想国ごとに差別するのか?」
「それは――そういうことではなく!貴方、保健室に行く理由がないでしょう!」

 掴まれた手首を振りほどこうとしても、少女の非力では年上の男子の力を上回ることはできない。忌々しいと睨みつけた彼の手首の装飾品が揺れる。目障りだった。膝を怪我しているのに、歩調に配慮がない。ちらちらと集まる視線はオトヒメの怒声は勿論、彼女の言い分通りあの白牙ムサシが余所の仮想国の少女を引っ張り回しているということも大きな要因のひとつだ。 貴方のせいで転んだわけでもないのに、どんな因縁があって保健室まで着いてくる気でいるのだ。いきりたつオトヒメの糾弾に、それまで一度も振り返らないでいたムサシが突然足を止めた。急なことに、彼の背中につんのめってぶつかりそうになるのをどうにか堪えた。反動で、膝の傷がじくじくと痛みを訴えた。ぼろぼろの足で歩き回るなんてみっともなくて、さっさと保健室に辿り着きたいのにどうしたってムサシの存在が邪魔だった。追い払いたい一心で言葉を放ってみたけれど、もしや怒らせてしまったのだろうか。怒って立ち去ってくれれば儲けものだが、喧嘩を吹っかけられたら面倒だ。直接のぶつかり合いは当然分が悪い。セカンドワールド内でのLBXバトルに持ちかけられてはジンに迷惑が掛かる。オトヒメはこのままただムサシとの邂逅をなかったことにして別れてしまいたい。けれどもやはり、ムサシには乙女を思いやる機微というものにとことん欠けた男であった。

「保健室に行く理由はないが――」
「…っ!?」
「お前を狙う理由ならある」
「何…を、」
「狙撃手が、あそこまで追い詰めた獲物に逃げられたとあってはな」
「―――!!」
 手首を掴む手に力が籠もる。骨が軋んでしまいそうだった。痛みに顔を顰めると、力は直ぐに緩まったがオトヒメの警戒心はこの一瞬で城壁の如く強固となって二人の間に横たわる。ぶつかり合う瞳に、視線だけは真っ直ぐな男だという悪態は動きを制限されてしまっている以上控えて置いた。捕まってしま前に、意地を張らずに逃げ出してしまえばよかったと悔やんでも遅い。
 いくらハーネスが小国とはいえ、何故ムサシがオトヒメを過日にぎりぎりまで追い詰めておきながら仕留め損ねた小隊の隊長であると見抜いているかは知らないがそんなことはどうでもいい。横槍が入らなければ仕留められていた相手、つまりは格下と思われているのならばそちらの方がよほどオトヒメには気に入らない事態だ。先程張らなければよかったと後悔したばかりの意地が顔を出す。こればかりは性分だった。

「俺はお前たちの自慢の司令官よりも、お前個人に興味がある」
「あ、あなた最初から見てましたのね!?」
「機を窺っていたとはいえ覗き見のような結果になってしまったことは謝るが――」
「今度は何ですの!?」
「俺も武人だ。筋は通そう。ウォータイムでは狙撃手故不意を打つこともあるだろう」
「……?」
「お前個人を狙うときは、正々堂々正面から行かせてもらう」
「はあ?真正面から突っ込んでくるなら、わたくしだって負けてはいませんわよ?少し名が通っているからって調子に乗らないでくださるかしら?」
「なるほど、恋する乙女の割には鈍いんだな」
「誰が愚鈍ですって!?」
「そんなことは言っていないんだが…」

 憤慨し始めたオトヒメに、予想の斜め上をいく女子だとムサシは頭を掻いた。しかし言いたいことを言いきった以上、さっさと彼女を保健室に連れて行くべきだろう。そもそも彼にそんなことを引き受ける義理すらないことは問題ですらなかった。
 オトヒメは、正々堂々筋を通す以前に武人がこんな風に初対面同様の女子の腕を乱暴に掴んで校内を練り歩くものですかという至極真っ当な指摘を今にも吐き出しそうになりながらも唇を引き結んで大人しくついていく。どうやら彼は一度自分で決めたことを簡単に引っ込めるような人物ではなさそうだ。悪い人間でもないのだろう。だが強引で、女の子には受けが悪い。少なくとも、オトヒメにとっては。スマートでなく、彼女が瞼の裏に掲げる優雅な振る舞いの司令官とは程遠い。
 オトヒメの白牙ムサシに対する心象は現時点でマイナス地点もいいところ。セカンドワールドで遭遇すれば、無策で臨めば危ういだろうが勝てないと諦めて挑むほどの力量差であるとは思わない。対峙するならば躊躇いなくぶつかるだろう。この学園に在籍する以上、誰もがそうだ。惑うほどの想いの溜まり場が、果たしてこの男との出会いにあるかどうか。余計な出会いに余計な時間を吸い取られてしまったと憤るだけのオトヒメにはまだわからない。擦り剥いた傷口はとっくに血も固まって痛みも落ち着いていた。
 こんな迂闊はもう繰り返さない。慕情に目を眩ませて、足元の注意を疎かにするようなんてことは決して――。その決意が既に遅すぎるものであるということを、オトヒメはいずれ目の前を歩くムサシによって思い知らされることになるとは、この時はまだ夢にも思わない。




――――――――――

大海なんて知らずにいよう
Title by『おどろ』

20131118



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -