口を着けたマグカップの中身がいつの間にか空になっていたことに、みおんは眉を顰めた。随分前に飲み干してしまっていたようで、底を縁どるように残っているコーヒーの乾いた痕が許せなくなってきて、身体を沈めていた椅子から腰を上げる。洗わなければおかわりもできない。どうせやらなければならないことを後回しにすることが、みおんは苦手だった。
 プリティートップの建物内に設置された給湯室には誰もいなかった。みおんはほっと息を吐いて、シンクに置いたマグ一杯に水を注ぐ。どうしてこういう外に在るシンクは水跳ねの音が自宅のそれよりもうるさく感じられるのだろう。首を捻り、単純に値段と質が比例しているのだろうと結論付ける。どうせ新しくする予定もないのだし、単純に給湯室としての機能には問題ないのだからそれでいいのではないか。ただ、うるさいのだ。
 洗い終えたばかりのマグカップにまたコーヒーを淹れ直す。この単純な動作も、久しく行っていなかったような気がして、そういえば仕事中のみおんは自分で用意するまでもなくマネージャーとして振る舞っているワタルが用意してくれていたことを思い出す。彼は今日会社に顔を出していない。無断欠勤ではないのだけれど、有給扱いしてやるには文句をつけてからではないと癪に思えるような態度の窺えるワタルからのメールを、みおんはパンツの尻ポケットから取り出して再度読み直す。

「ごめん、今日行けないって、デートじゃないのよ全く……」

 もちろん、デートのドタキャンにしたって当日のメールひとつで許されるものではないけれど。あんたそれでも社会人なのという文句は、けれどたぶん、これはみおんへの抗議なのだと思うとひとりきりでいてもそうそう口に出せるものではなかった。
 小さい頃からひとりでいることが多かった。そんな背景が手伝って、大抵のことは一人でできたし、それが当然のことだった。それは信頼できる仲間が出来たとしても変わらない。閉ざすのではなく、開きながら、それでも自分の足で歩くのだと思ってきた。そうでなければ成長なんて出来ない。おんぶ抱っこの関係をみおんは友情とは呼ばないのだから。だからみおんは、世界中の誰よりも大切な友人であるあいらとりずむが三人揃って別々の道を歩み始めたことに寂しさは覚えても不安は感じることなく今日まで歩いてこれたのだ。
 ワタルは、みおんが一番意固地だった頃、そして変わっていく自分に戸惑っていた頃、たぶん、沢山の言葉をくれた男の子だった。年上とはっきり意識するには、みおんの憧れの対象としては幾分幼くて、わかりやすい好意が結果を急いていないことに甘えて、随分と振り回して来たとは思う。それも確かにみおんらしさで、そんな彼女に釣り回されて疲れない距離感を知っているのがワタルだったのかもしれない。それを、ほんの僅かな齢の差の為せる技とは思わないが。
 阿世知社長からその座を譲り受けたみおんのマネージャー的ポジションに落ち着いたワタルを――勿論時給は採用した際に冗談めかして提示したものではない――、どうしてか近頃歯痒く感じる。それが目下みおんの頭を悩ませている事案だった。別に、まだまだステージに立つべき側の人間だからとか、そういう意味で惜しいと感じているわけではない。ワタルと同じCallinsのショウやヒビキも同じ時期にそれぞれ別の未来を選択していて、その中でワタルが選んだ未来がみおんの――プリティートップの社長の――サポートをすることだったわけで。本当にそれがあなたのやりたいことなのと問うほど、みおんは自分を過小評価していないしワタルを流されやすい愚か者だとも思っていない。ただそれでも、歯痒いものは歯痒いのだ。
 この感覚は、あいらとりずむと出会って間もない頃、彼女たちの誕生日を祝おうとして感じた迷いとどこか似ている。あの二人は、みおんが出会う前から随分と仲が良かった。お互い初めての親友、ライバル、その関係に心からの信頼を寄せているようだった。みおんが入りこんだら、それは余計なものを加味することになるのではと気後れするくらいに。
 みおんなんかに誕生日を祝われても、嬉しくないかもしれない。そんな彼女の不安を吹き飛ばそうと励ましてくれたのはワタルだった。夏祭りやハロウィン、ニューイヤーカップや直後の海外への旅立ち。ワタルは非常によくみおんを気に掛けてくれた。本人は知らないようだが、当時のバレンタインにわざと小さなチョコを送ったときの感想は人伝てに聞いている。齢を重ねる以前からわかっていた。彼は一際みおんに好意的であったと。きっと、自分の恋愛がヒビキとの結婚という形で落ち着いた今のりずむがあの頃のワタルを見たら応援という名の手を出さずにはいられなかっただろう。想像して、みおんは笑った。
 ワタルのことは嫌いじゃない。みおんは彼のことをそう表現する。恋も憧れも、年上の人に向けてきた。ワタルよりもずっとみおんのことをわかってくれて、みおんに煩わされずまた煩わさず付き合ってくれる人。長引かせすぎたのかもしれない。あいらやりずむの恋は勿論素直に応援してきたが、終ぞそういった恋愛の与太話の中心に自分を据えて盛り上がることはなかった。

「――さてと」

 切り替えには呪文が必要だ。区切ってしまえば、みおんは仕事と私情をあっさりと切り離す。プロとしての責任は、ステージから降りても役目がある限り発生し続けるのだ。ひとりでは得られないものがあると知っている。辿りつけない場所も、見えない景色があることも、気付けないことがあるとも知っている。けれどそれでも、みおんは一人で立てる。寄り掛からない、誇り高い、少女から女性へと変わっていく途中の彼女。
 ――ワタルは、みおんの後ろにいるのが好きなの?
 休憩はもうお終いと、デスクに戻ろうとした矢先に自分の言葉が蘇る。言い放ったのは、昨日仕事が終わってそれじゃあとワタルと別れる直前のことだった。感じ続けていた歯痒さが思わず口を突いて出たにしても、これは人を怒らせる物言いだったとわかってしまって、けれどワタルの答えも気になって、みおんは取り消すタイミングを見失った。一度言ってしまった言葉が簡単には取り消せないこともきっとわかっていた。不要な補足という名の言い訳もしなかった。

「違うよ」

 ワタルの返事は一言だった。表情は、もう夜だったからよく見えなかった。口元は笑おうとしていたけれど恐らく瞳は全く別の感情を浮かべていたはずだ。傷付けたかもしれない、そうみおんが危惧した時には彼女はもう自宅に戻っていた。
 否定するなら、もっとその先まで言葉にして欲しかったと願うのは我儘だろうか。あの日、しれっと自分の未来をみおんに寄り添わせたワタルの声を覚えている。
 ――みおんの右腕になれるのは僕だけじゃない?
 15歳のみおんだったら、きっとそんなことはないとぴしゃり言い放っただろう。18歳のみおんは、冗談であしらいながらそれでもワタルを傍に置いた。けれどそれは過程であって答えではなかった。そのはずなのに、どうして慣れてしまったのだろう。二人で乗り越えなければ、一緒にはなれないとみおんは大切な仲間の恋路を見守りながら理解していた筈なのに。
 仕事はまだ残っている。だが今日は興が乗らない。中途半端に処理しても落ち度が残る。だから、みおんは淹れたばかりのコーヒーをまた排水溝にぶちまけて、マグの中に水を注いで、そのまま給湯室から出ると財布とスマポだけをポケットに突っ込んで外へ出た。行き先は、数回ではあるが訪ねたことのあるワタルの家。記憶を探りながら、背筋を伸ばして歩き出す。

「要するにへそ曲げてるのよね」

 不満は、己への叱咤だった。怯まずに、彼の部屋のベルを鳴らすまでは凛としていよう。
 ――みおんの後ろにいるんじゃないなら、ここにいなきゃダメでしょ。
 静か過ぎる社長室は、それこそ阿世知が社長だった頃から居心地が悪いのだ。
 衝動に突き動かされるままの行動は、冷静になってはいけない。やりきるまで、フリであっても盲目であるほうが勢いがつく。大丈夫、怖くはない。
 ――みおんは僕が守ってあげるよ!
 そういえば、そんな言葉も貰った。ひとりぼっちと完璧はイコールで繋がっていると信じ込んでいた時期に貰った、要らないフリをして、けれど心の奥底に仕舞っておいた言葉。今でも大事に持っていると打ち明けたら、ワタルはどんな顔をするだろう。曲げていたへそを戻してくれるといいのだけれど。そうでなければ、本当に自給450円に格下げせざるを得ない。
 胸を張って、そう宣告したらワタルは慌てるに違いない。みおんの右腕を買って出たあの日のように。そしてその予想が全く間違っていなかったことを知る数十分後、願わくば、もう一度聞かせてほしい。守ってあげるでも、右腕になれるのは僕だけじゃないでも、何でもいいから。
 ワタルはみおんの後ろではなくて隣にいるのだと、そう信じさせてくれる言葉を、もう一度。




■ずっとまえに訊いたきり
20141016






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