あ、怒鳴られる。
 そう察知した瞬間、聞き慣れた喧しい声に気圧される前に、かのんは耳に当てていたスマポを遠ざけた。それでも、怒りの叫びはかのんの目を細めるほどの勢いで以て流れて来たけれど。

『ウチとの食事をドタキャンするとはどういうこっちゃー!!』
「せやけどセレナちゃん、仕方ないやないの。こっちも立て込んどるんやから」

 嘘。厄介ではあるけれど、立て込んではいなかった。壁掛けの時計で時刻を確認する。スマポを耳と肩で挟んで、かのんはソファに掛けておいた、今日セレナとの食事に出かけるときに卸すつもりだった新しいコートを手に取った。今年の冬はこのコート一着だけで乗り越えることになっても構わないくらいの気概で、奮発して購入したものだけれど残念だがもう一度クローゼットの中に戻すしかない。それから、キッチンへ行き紅茶の茶葉のストックがまだあったかどうかを確認しなければ。味の違いに拘るような人ではないけれど、これからやってくる客人は、年頃の女の子の大半が持ち合わせているプロポーションへの悩みが欠けているのか何なのか、飲食に関しては何処であろうと誰のもてなしであろうと遠慮のない人だから。
 「これから行くから!」とかのんの都合も聞かず――外出中だったらどうする気だったのやら――、用件のみの連絡を入れてさっさと通話を終了してしまったのは義姉のりずむだった。どうせ今回も、兄のヒビキとではなく、一人で来るつもりなのだろう。もう何度目かも数えきれないから、驚きもしないけれど。けれどセレナあたりに話したらどうだろう――理由はないけれど、かのんはりずむが頻繁に一人で自分の部屋に出入りしていることを話しそびれている――、きっと彼女は驚くに違いない。兄のヒビキに生まれてからずっとひっついて育ってきたかのんにとって、彼の恋愛沙汰は鬼門に違いないと彼女自身思っていたし、実際ヒビキがりずむに出会ってから彼女を気に入っているような言動をするのを、かのんは鼻持ちならない気持ちでいちいち割って入っていた。明らかにりずむにもヒビキに気がある態度だったことと、彼女の属するMARs自体ともライバル関係にあったことも含めて、二人の甘い雰囲気を粉砕しようと意図的に立ち振る舞うことに疑問も抵抗もなかった。そのかのんの明確な意思表示をりずむもわかっていたはずだし、恋人との時間を邪魔してくる小姑はただただ鬱陶しい存在だと感じていたに違いない。
 出会ってから、5年。ヒビキとりずむの結婚に祝福と感謝を伝えられるようになるまでに、それは必要最低の年月だったのだ。兄の幸せを願えないほど子どもではなかったし、りずむの正直さとひたむきさを認められないほど伊達にライバルは名乗って来ていない。結局、ヒビキとりずむが結婚してからも顔を合わせる時は今まで通りのかのんで居続けたし、呆れながらもかのんを叱りもしないヒビキと安い挑発に相変わらず乗ってしまうりずむの関係は変わらないように思っていた。いつの時代も小姑は厄介なもの。それなのに。
 りずむは時々ヒビキを伴わないでかのんが暮らす部屋に遊びに来る。二人だけでプライベートな空間に閉じこもるなんて(しかも自主的に)、ヒビキとりずむの結婚以前には有り得ないことだった。最初はかのんも警戒心を露わに出迎えたものだけれど、結婚を認めたのだから全面的にヒビキのことを自分に委ねたのだろうと攻勢に出ているわけではなさそうだった。
 何より、かのんの部屋にいるときのりずむは積極的にヒビキの話題を持ち出そうとはしない。これも、かのんにヒビキについて鬱陶しいほどの口を出されるのが嫌だからというわけではない。
 話は単純だ。りずむがかのんの部屋にやってくるのは決まってヒビキと喧嘩したか、彼に叱られたかしてへそを曲げたときなのだ。

「ヒーくんに対する避難場所にウチを選ぶん、ミスマッチと違います?」

 何度もお茶やお菓子を差し出しながら言い聞かせたけれど、りずむは「うう〜ん」とか、「ええー?」と唸るだけでまともな返事をしなかった。常識的に考えて、かのんはヒビキの味方にカウントされるべきだ。そして、喧嘩の理由を打ち明ければそれでも「りずむはん、ヒーくんみたいな素敵な旦那放り出して何してはるん? そんならウチに返して貰いましょか?」と微笑みながら威圧のひとつでもしてやらなければ気が済まない。それがかのんの思い描く彼女らしさであり、恐らく自分たちの関係を知っている人間の想像内にも必ず存在しているはずの姿。
 けれどどうやら、りずむはいい奥さんのようだ。特にかのんの家にやってくるときほど、彼女は掃除も洗濯も終わらせてやってくる。ヒビキへのあてつけに、炊事だけは放り出してくるらしい。「ヒーくんを飢えさせる気?」とはそういえば、問い詰めたことはなかった。同じように、喧嘩の理由について問い詰めたことも殆どない。どうせりずむが悪いと侮っているからでもなく、夫婦だからこその喧嘩の原因を聞かされるのは他人の惚気を聞かされるのと同じだとかのんは思っているから。大好きな兄だけれど、夫婦生活の実情までは把握しなくてもいいかなと、かのんにしては鷹揚に、遠巻きに、出来るだけ冷静に兄夫婦と立ち位置を分けるよう意識していた。

『かのんはウチとの食事より大事なことがあるんかー!!』
「そりゃあもう、たーんと」
『この薄情者――!!』
「はいはい、もう切りますえ。埋め合わせは必ずするから、そんなへそ曲げんといてな」
『キーーッ!!』

 セレナとの通話をきる。漸く自由になった両手で、リビングのソファを整える。りずむは大抵、ここに突っ伏しながらヒビキへの不満ではなく、かのんの部屋の心地よさにうっとりと酔いしれるのだ。かのんのお気に入りのクッションに顔を埋めながら「良い匂い」と頬ずりされたときは失礼ながら鳥肌が立って、思わず彼女の頭を引っ叩いてしまった。漫才で鍛えたそれは、思いの外ダメージが大きかったらしく、りずむは盛大に文句を漏らしたものの、自分の家からはさっさと逃げ出してくるくせにいつまでもかのんの部屋から出て行こうとはしなかった。
 恐らく、その時に気付いてしまったのだ。りずむにとって、いつの間にか自分が厄介ならば距離を取ればいいという存在からずっと親密な場所に踏み込んでしまっていることに。表面上は、出会った頃から変わらない、噛み合わない二人の会話ばかり繰り広げているというのに。
 ――家族。
 それはセレナともかなめとも、あいらともみおんとも違う、友だちとも、仲間とも、ライバルとも違うずっと親密な、かのんが大切にしてきた関係のある場所。りずむにとってのそこに自分が立っていることに今更ながらに驚いて、そして自分も彼等の結婚が世間に公表された日に、りずむを家族の呼び方で受け入れたことを思い出したのだ。兄のお嫁さんではなく、私のおねえちゃんなのだと、かのんはいつの間にかりずむをすっかり受け入れてしまっていた。
 そう自覚した途端、恥ずかしながらかのんはりずむを無体に扉の外へ放り出すことが出来なくなってしまったのだ。
 ――そんなんウチがりずむはんのこと大好きみたいでいややわあ。
 おどけてみても、結局その通りなのだ。


 セレナとの通話を終えたばかりのスマポが掌の中で振動する。見れば新着のメールが2件届いていた。1件目は、りずむから今着いたから部屋に行くという連絡。それからもう1件は――。

 ――ピンポーン

 もう1件のメールを確認している間に、インターフォンが鳴る。きっとりずむだろう。扉を開けたとき、彼女は笑っているだろうか。不機嫌に頬を膨らませているだろうか。どちらにせよ、今日は長時間この部屋で歓待することもできない。

『今からりずむがそっちに行くと思うんだけどさ、適当に時間が過ぎたら外に連れて来てくれないかな。ご飯食べに行こう、三人で』

 届いたばかりの、ヒビキからのメールの意味を理解して、妻のエスコートをするのに随分不格好なことをする、かのんにとって最高に格好いい兄の必死な感じがどこかおかしかった。どうやら、喧嘩の軍配は既にりずむに上がっているらしい。
 かのんを急かすように、もう一度インターフォンが鳴らされる。
 しまったばかりのコートを、またクローゼットから出さなければならない。



■幼ごころの溶け残り
20140918






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