水鳥は職員室が好きではない。そもそもそこに集う教師という生き物があまり好きではない。彼等は水鳥の口調や服装を正すべきものとしてみなしているから。誰に迷惑を掛けているつもりもない水鳥には、そういった大人の口喧しい注意文句は全く心に響かない。サッカー部顧問の音無のように口喧しくない教師もいるにはいるが、かといって水鳥が教師全体への煙たいイメージを払拭するには足りなかった。
 そんな水鳥であったから、自分がまさか理事長室に呼び出されることになるとは夢にも思わなかった。何かやらかしてしまったかなと己を振り返るのは多少のやましさならばあるからで。しかし理事長に呼び出されるほどの大損害を物にも人にも与えた記憶はなかった。校内放送で大々的に呼び出されたわけでもなく、理事長本人と廊下ですれ違った際、ちょっと寄って行かないかしらとお誘いを受けただけ。これでお説教が待っていたら水鳥は軽々しくこの部屋に足を踏み入れた迂闊さを呪うべきなのだろう。かといって、相手が理事長というだけで、適当に理由をつけて逃げ出す対応は真っ当だったろう。親しくもない大人と一対一という図式すら気まずいものがある。それが理事長と生徒という肩書を加えれば、水鳥には気安さよりも重苦しい印象が勝るのだから。

「適当に座ってね」

 そう微笑む理事長は、かつてこの雷門がフィフスセクターの干渉をもろに受けていた頃とは全くの別人が就任していた。この学校の歴史からいえば、本来この人がいることが真っ当であると大人たちは言う。
 ――雷門夏未。
 その苗字を聞けば水鳥もなるほどと納得した。理事長にしては幾分若すぎるようにも感じるが、学生時代から当時の理事長であった父の仕事を手伝っていたらしい彼女の業務捌きにはそつがない。そしてこの雷門のサッカー部が繁栄する始まりの世代に於いてはマネージャーを務めていたらしい。その割に、彼女はサッカー部に関心を持っているようには見えなかった。それが、サッカー部が贔屓されて当然の世間と、雷門に於いて理事長として最低限の平等を維持しようとする夏未の真面目な性分の表れだとは水鳥は知らない。

「――あなた、サッカー部のマネージャーなの?」
「…へ?…うーん、どうだろう…?」

 夏未の適当に座ってという言葉に従い、ソファに座っていた水鳥とテーブルを挟んで真向かいに夏未は座り、尋ねた。意外な質問に、水鳥は咄嗟に自分らしくないと思いながら言葉を濁した。水鳥はサッカー部に入部届を出しているし、普段の部活動の姿勢を夏未が遠巻きに見かける機会があったとして、マネージャー以外に見える節があったのだろうか。確かにいつまでも他のマネージャーと違いジャージに着替えない点は視覚的に浮いているかもしれないが、それは単純に面倒くさいからだ。
 そして夏未の質問を受けて、水鳥は自分の入部動機を思い出す。今や部長となってしまった、松風天馬という少年に興味を持ったこと、それが水鳥がサッカー部に関わることになったきっかけだ。自己紹介のときにも水鳥は彼の応援団長といったところだと、その動機を隠しはしなかった。恥じらうような感情が働いていたわけではないのだから当然といえば当然。けれど、もうそれだけが理由でないことを水鳥は心のどこかで自覚している。天馬以外は腑抜けに思えて仕方がなかった雷門のサッカー部、その仲間たち全員を水鳥は心の底から応援したいと思っているし、現にそうしているのだから。

「少し、似ていると思ったものだから」
「――?」
「つい呼び止めてしまったの。ごめんなさいね」
「……はあ、」
「私も昔、この雷門のサッカー部で、ひとりの男の子に出会ったのよ」

 悶々と考え込む水鳥を前に、夏未は遠い過去を見つめるまなざしで水鳥を透かした。
 似ていると思った、本当に少しだけ。気の強さは通じるかもしれないが、自分はこの少女ほど奔放ではなかったと夏未は思う。雷門という枠の中で生きるからこそ、サッカー部という存在が目についた。水鳥はきっと枠の中になどいなかったから、燻るサッカー部という存在に目が留まった。そうして出会った少年は、きっと少女の一生にかけがえのない時を刻む起点となった。
 そのかけがえのない時を過ぎて、夏未は大人になった。水鳥はまだ道の途中、それが眩しくて、直視は出来ずとも無視も出来ない。

「……続きは?」
「ふふ、ないわ。終わりのある物語ではないもの」
「でもハッピーエンドだったんでしょ?」
「サッカー部の輝かしい成果から言えばそうなのかもしれないわね」
「理事長から言うと違うってこと?」
「言ったでしょう?終わってなんかいないの」

 思い出を語ることは容易く、時に楽しくて口が滑る。けれど夏未は節度を持って口を噤む。語り聞かせるには、サッカーはまだ彼女から遠ざかってはいない。
 水鳥は目の前で微笑んだ夏未のまなざしがあまりに優しく自分に向けられているものだから、突然居心地の悪さがぶり返す。普段は行事の挨拶など壇上に立つ夏未しか見る機会のなかった水鳥には、このひとりの女性としての柔らかい表情は捉えどころがなく、経験が追い付かないが故解釈することも難しかった。

「――でも、聞きたい」
「え?」
「理事長がマネージャーやってた頃の話、聞いてみたい」
「……機会があればね」
「よっしゃ!」
「引き留めてごめんなさいね。さあ、もう部活の時間よ」

 今日の会談はこれで終わり、夏未が席を立った瞬間に言葉を重ねる空気が解けてしまう。渋々と立ち上がり、水鳥も時計を確認し、さっさと部活に行かなければならない時刻だと腰を上げた。
 それから、理事長の席に着こうとしている夏未を一瞥する。気紛れな邂逅だった。けれど嘘を吐くような女性には見えない。だから、先程の言葉は水鳥の中で約束として保存される。いつかきっと、彼女の思い出を語って貰おう。終わっていないというのなら、途中の話だって構わないから。自分に似ていると思わせるような欠片があるのならば、水鳥も無関心ではいられない。
 職員室は苦手なまま、水鳥はきっとこの先何度も理事長室の扉を潜るだろう。そしてその度に、ノック位しなさいとお叱りを受けることになる。その実、仕方がないわねと出来の悪い妹に手を焼くように苦笑する夏未のことが、水鳥は嫌いではないのだ。


∴駆け引きが出来るほど私は大人じゃない
20130510