※リカ+茜(→拓人)



 休憩中だというのに元気に走り回っている後輩たちを、拓人はベンチに座りながら見ていた。練習はまだ続くのだから、休むことも練習の内だと注意するべきだろうか。迷っていると、ゆうに二人は座れるスペースを開けた隣に座っていた茜がカメラのデータを確認しながら歌っている鼻歌のメロディが拓人の耳を掠めた。顔の向きを、後輩たちから茜へ。彼女は拓人の視線には気付いていないようだ。
 どこかで聞き覚えがあるような、タイトルも知らない昔の歌だった。歌詞も、全体を通したメロディも。けれど茜はその歌が好きなのか、Aメロから始まりサビの終わりまで歌いきるとまた初めに繰り返し戻り歌い続けている。無意識か、表情は不審に思えるほど無に近かった。いつもの彼女ならばもっと楽しそうに撮り溜めた写真を見つめているだろうに。
 気になりつつも声に出せないまま、拓人は頭の中で茜が奏でるメロディを一拍遅れで音階に直していく。耳のいい拓人だからこそ出来る一人遊びだ。
 ド、ド、ド、レ、ミ、ミ――時折シャープで上がる音。イ長調だと拓人が気が付いた瞬間、茜の鼻歌はピタリと止んでしまった。折角いい調子で変換出来ていたのにと少しだけ残念な気持ちで茜の方を見ると、彼女の方もじっと拓人を見つめていた。滅多に正面から視線がかち合うことはなかったので、拓人は少々たじろいでしまう。茜はそんな拓人の失礼とも取れる反応に、ただ「休憩終了でーす!」と声を張り上げている新米キャプテンを指差した。
 全く気付かなかったと慌てて立ち上がり駆け出そうとした拓人はぐっと踏みとどまって、茜の方を振り向いて礼を言った。今度は彼女の方が意外だと言わんばかりに目を見張った。たが直ぐに微笑んで首を横に振り気にしないでと伝えてくる。
「――そういえば、さっき山菜が歌ってた歌なんだけど、聞き覚えはあるんたがタイトルが思い出せなくて……何か有名な歌だったか?」
「―――?」
「休憩中、ずっと鼻歌で歌ってただろ?」
「え…っと、」
「ひょっとして無意識だったか?…ああもう行かないとだな。ええっともしタイトルを知ってたら聞きたかっただけなんだ。じゃ」
 天馬に呼ばれて拓人はさっさと行ってしまった。茜も立ち上がり、休憩中に使用したタオルを洗濯しに向かわなくてはならない。手にしていたカメラをベンチの端に置く。流石に水仕事にまでは持ち込めないから。
 タオルの入った籠を両手で抱え歩きながら、茜はとぼとぼとひとりで歩き出す。後方から聞こえる元気の良い声が次第に遠くなっていくのを感じながら、茜は先程の問いを思い出していた。自分が歌っていた鼻歌のタイトル。聞こえていたとは思わなくて、咄嗟に何と返して良いのかわからなくなってしまった。けれど実際、茜もタイトルは知らないのだ。ただ鼻歌でメロディをなぞっていただけでも歌詞はきちんと覚えている。
「――お姫さまになれなかった、自分はお姫さまだと信じている、そんな女の子の歌なんだよ、シン様」
 呟いた声は、拓人に届くはずがなかった。




 茜がその歌を初めて聴いたのは、彼女の隣で雷門サッカーを懐かしいと見学している女性が口ずさんでいたのを聴いた時だった。その人はある日用事があって近くに来たからと大人の文句で監督たちに声を掛けてきた。懐かしいと再会を喜び合う傍ら、練習の邪魔はしないからと早々にベンチに腰を下ろしてしまった。確かにベンチに見知らぬ人が座っているくらいで練習が中断することはない。仕事の手が空けばベンチから応援するマネージャーたちは若干居心地が悪いかもしれないけれど、監督たちと一緒にサッカーをしていた人だったというのだから悪い人ではないのだろう。茜は数人分の距離を挟み、その人の隣に腰を下ろした。
「あんた、あのMFの子好きなん?」
 突然、声が茜の耳に割り込んできて、初めは自分に話しかけられたのかどうかも怪しかった。けれど、周囲を見渡してからこれまで黙って練習を見学していた女性におずおずと視線を向けると、今の言葉は確かに茜に向けたものだと説明するように頷いた。
「あの…MFって…」
「ん?あのチームの司令塔のMFや。さっきからずっとカメラで追いかけとるん、彼やろ?」
「私…他のみんなの写真も撮ってます」
「せやけど恋する女の本能言ったらやっぱ好きな男追うのが普通やん」
「そんなにわかりやすかったですか?」
 女性が指差した先には、試合中と同じくチームの流れを見極めて的確にパスの指示を出す拓人がいた。茜はその人が関西弁だったことに驚きながらも、自分の恋心があっさり初対面の傍観者に見抜かれてしまったことが何より衝撃だった。一見で露呈してしまうような想いならば、部員にもバレているかもしれない。露骨なシャッター音は憧れの二文字で誤魔化せているつもりでいるけれど、どうやら彼女には自分の想いが憧れではなく恋心だという確信があるらしい。
「別に?ただ――うん、何となくその盲目な感じが随分懐かしくてなあ、あまりに似てたからわかってしもただけや。普段はちゃんと隠しとるんやろ」
「………、」
「ウチも昔MFの男に惚れ込んでな、追いかけて同じチームに押しかけたり、顔を合わせれば引っ付いてやっすい告白連呼したもんや」
「――すごいですね」
「すごくなんかあらへんよ。勢い任せの、相手の反応なんて全然見えとらんで、完全な独り相撲やん」
「…終わっちゃったんですか?」
「ん、真面目な人でなあ、きちんと言葉選んで、きちんと振ってくれたわ」
「…?嬉しそう…」
 女性が語る恋の思い出は、実ることのなかった想いのはずなのに。それを語る彼女の表情に一切苦々しい色を見つけることが出来なくて茜は戸惑った。この人は、きっと今の拓人を追いかける自分の姿が過去の彼女自身と重なって見えたのだろう。それくらいならば、理解できた。しかし、それはつまり茜の抱く恋心は叶わない類のものだと思われているのか。そうだったら、嫌だなと思った。面と向かって言うことは出来ないけれど。
 茜は女性をじっと見つめている。彼女は絶えずグラウンドで行われているゲームの行方とボールを見つめている。話をする際に、まるで相手を無視するような態度を取るのは大人の特権なのだろうか。意識と視線を引き寄せようにも、茜は彼女の名前を知らなかった。
 暫く沈黙が続き、茜も再びカメラを構えてゲーム中の仲間たちに向けてシャッターを切る。カシャ、カシャ、と何度目かのシャッター音を鳴らした時、歌声が聞こえた。会話が途切れてから黙り込んでいた女性が歌っていた。彼女の方を向いてはみたものの、茜は何も言わずその歌声に聴き入っていた。特別人を惹きつける魅力があるわけではないけれど、茜は意識の全てを傾けて歌声を拾う。どこかで聴いたことのある懐かしいメロディ。けれど親密な印象はない。
 何度か同じ歌を繰り返し、女性は気が済んだのかほっと息を吐いた。そして漸く茜がじっと自分を見つめていたことに気が付いたらしい。
「…大人になったから?」
「ん?」
「大人になったら、子どもの頃の恋愛なんて、笑える思い出話にしかならないの?」
「――――、」
 今にも泣き出しそうな顔で、茜は問う。察してしまった。本気で心を傾けた恋に破れて、それを穏やかな表情で語れてしまうこと。それは彼女にとっては全てが思い出だから。味わった痛みも、襲われた悲しみも。決して今この瞬間に迫ることなく終わってしまったこと。大人だからと子どもを追いやれば思い出は微笑ましいばかりなのか。それは、現在進行形で拓人に恋をしている茜にはまだわからない。
「…別にそんなつもりはなかったんやけど」
「嘘」
「嘘やない。ただ、あんたに自分がダブって見えた恋は確かにもう思い出や。そんでもって、後にも先にも、あれがウチにとって最大の恋だったことは間違いないわ」
「…それなら、」
「でもウチはあの人のお姫さまじゃあらへんかったし、色々未熟だった。今だから笑って人前に晒せるけど、当時は真剣そのものやったんや」
「………」
「その、ウチにとってのあの頃が――あんたにとっては今なんやろうなあ」
 そう微笑んで、女性は席を立った。怒らせてしまったかと身体を強ばらせた茜の頭をすれ違いざまに撫でて、その人は手を振りながら去って行った。引き留めることも出来ず、茜の耳には彼女の歌っていた歌が不思議なほど正確に録音され繰り返し再生されていた。



 洗濯機にタオルを放り込みながら、茜は歌う。今度は鼻歌のメロディではなく言葉を紡ぐ。女の子は大人の階段を上るお姫さまで、いつの間にか大人になり子どもだった自分を懐かしむのだという。ならばいつか、茜も今の自分を思い出に閉じ込めて振り返るのだろうか。
 ――あの人みたいに?
 問いかけて、洗濯機の蓋を閉めた瞬間、茜はあの女性の名前すら知らなかったことに気が付いたのであった。




∴恋愛ごっこじゃない、本気なんだ