「髪に触ってもいいですか?」

 部室にて、書類整理を手伝ってくれていた貴志部の突然の願い入れに、つい考え事をしていた照美は咄嗟には返事をすることができずに「ん?」と彼の顔を見つめることしかできなかった。それが、貴志部の願いの勢いを削いでしまったということは、恥ずかしげに俯いてしまったのを見れば火を見るより明らかで照美は不快になど思っていないよと伝える為に彼の小さな頭を撫でてみた。効果があったのかなかったのか、益々縮こまってしまった貴志部に、照美は中学生とは難しい年頃なのだなとしみじみと感じるのであった。
 木戸川清修の教員ではなくあくまで監督として招かれている照美の仕事量は教員が顧問や監督、コーチまで務めるよりもずっと少なく気軽な立ち位置であることは違いない。しかしきっかけがフィフスセクターの意向によって配属させられたということもあり(生徒たちは当時自分たちの立場を決めかねていたし、教員たちもフィフスセクターに積極的に歩み寄ってきたという経緯もない)、この学校には照美が監督業だけをやりやすくする為に事務作業を引き受けてくれる顧問がいなかった。書類上いるのだろうけれど、サッカー部に関わろうとしない人間が名前だけ貸しつけている状態のようだ。部員たちは木戸川清修という学校に在籍する「生徒」なのであり、サッカーの為に木戸川清修の一員として学校の敷地外に連れ出すことにすら面倒くさい手続きが必要なのである。
 そして照美の考え事とはその面倒な書類の事務作業を如何にこの先軽減することができるだろうかということであった。正直、学校側に出入りする頻度の少ない照美には学校側の常識など全て把握できるはずがなく――やろうと思えば出来るだろうが、教員ではないという立場がどうにもやりにくくさせている――、面倒だから練習試合の移動にかかる公共交通機関の料金は照美が持つということにするのもいけないらしい。きちんと部費の中からやりくりし、その収支報告書を提出しなければならない。年度末の決算に合わせてではなく、部費の出費が行われる度にとのことでそれは非常に面倒くさいことだと照美が考えていた矢先の、貴志部のお願いだったのである。

「――髪? いいけど、急だね。どうした?」
「えっと……この書類が片付いたら……その、ご褒美ということで……」
「そんなことでいいのかい?」
「はい! ずっときれいだなって思ってて!」
「ふーん、貴志部がいいっていうならいいけどね」

 隣に座り此方を見上げながら必死に熱弁している貴志部の頭をもう一度撫でてやる。またしても恥ずかしげに顔を伏せる貴志部に可愛いと目を細めながら、この子はボールを蹴っているときの方が生き生きしているなと自分たちの関係を考えれば当たり前のことを考えてしまう。好きなことをしているときよりも指導者の立場にいる大人といるときの方が打ち解けている子どもなんて早々いないだろう。

「サッカーがしたいだけなのに、必要な書類が多すぎるね」

 お手上げだと溜息を吐けば、貴志部は「大人なのに……」とおかしそうに笑った。練習試合の相手や、その住所、交通手段と掛かる費用がある場合の算出と申請、挙句の果てには毎年部員の在籍確認の為に書き直す全員分の入部届も一覧にして出してくれと言われるし、大会が終わった後の部活動成果を報告する書類も仕上げなければならない。照美は部員たちを可愛く思ってはいるけれど、木戸川清修という学校そのものに思い入れがあるわけではないから、その内輪が円滑に回る為の業務を滞りなく遂行せよと言われても(やらないわけにはいかないのでやるけれども)重複や無意味な箇所ばかり目についてしまっていけない。

「監督が中学生の頃サッカーをするのにだって、必要だったんじゃないですか?」

 何気なく問われて、ふいに浮かんだ己の指導者の姿についまた考え込んでしまう。暗い部屋、黒いデスクとテーブル、何らかの書類を手にしている姿は想像に似合うけれど、それが教職員や保護者を納得させるための義務に追われていたようには見えなかった。

「どうだろうね。監督と顧問と学校の最高権力者がほぼイコールになっていたようなものだったから……」
「な、何かすごい人だったんですね……」

 何もない、宙を見上げながら朧気に、そして慎重に選ばれた照美の過去の断片に、貴志部は深入りすることができなかった。指導者として、照美は過度な干渉も放任するでもなく自分たちに答えを選ばせてくれた。そしてチームとして答えを決めてからは、具体的にサッカーの指導を行ってくれている。フィフスセクターが解散してから、照美が監督を解任されて去ってしまうのではと不安になったこともあるけれど、こうして現在も自分たちを教え続けてくれていることが貴志部には(他の部員よりも)一際嬉しい事実として胸に仕舞われている。
 そんな一方的な慕い方を秘めながら、照美に思い出を語られると自分たちの間に埋めがたい年齢の差を実感して何と返したらいいのかわからなくなる。自分だけが耳にできた照美の欠片を丁寧に拾い集めながら、けれど指先を傷付けることがないように直接手で触れることをしていないようなもどかしさを感じてしまう。
 照美は貴志部の幼い憧れによる執心にはまるで気付かない。大人の事務作業を文句も言わず手伝ってくれて、練習の虫で真面目が過ぎて時折衝突する部員の意見に挟まれて悩んでいる中学生の少年を、年齢の割には素直な子だと感心しながら見守っている。いつか自分よりも優秀なサッカープレイヤーとして羽ばたいていくかもしれない。そんな、微かな期待も込めながら。指導者と教え子、それくらいの距離が適切だと照美は疑問の余地もなく信じている。可愛がるのも道理だろう。

「そうだ! 僕も貴志部の髪を結んであげようかな!」

 貴志部が必死にしぼりだしたご褒美という位置づけをあっさりとゼロにして、照美は一切の特別を含まずにさも名案と言わんばかりに人差し指を立てて提案してくる。それを、実は照美に対してだけ異様に素直な貴志部がイヤと言える理由はなかった。



∴不釣り合いなくらいが丁度いい
20140630