教室から部室に向かう道を雪村は不機嫌を隠さぬ足取りで進む。不穏を撒き散らすまではいかないが雪村と反対側から歩いてきた人はすれ違いざまにうっかりその表情を覗いてしまえば驚き場合によっては脅えてしまうかもしれなかった。きっと感情と行動を直結させた雪村のこんな態度を、吹雪は微笑ましいと笑うのだろう。簡単に想像がつくいつも通りの子ども扱いに、雪村の渋面は益々酷くなってしまうのであった。
 サッカーのこととなると己の研磨にばかり意識が傾くのか、研鑽を積むにひたむきなのは雪村の美点だが他人にも同等の努力と情熱をさも当然とばかりに要求していた頃があり、団体競技に属しながら仲間という狭い集団の中ですら人間関係に難ありだった時期があった。今では大分その激しさは形を潜めて仲間との信頼関係を築けている。そのきっかけをくれたのは間違いなく卒業生というよしみで自分の前に現れた吹雪士郎の存在だった。今の雪村にとって気恥ずかしさも気後れもなく目標と言いきり誰よりも慕う相手だ。
 サッカー部のコーチとなり、自由なサッカーが取り戻された後も変わらずに面倒を見てくれている。何より雪村が部活の練習が終わった後にひとりで行う自主練習にも付き合ってくれるということが雪村にとって一種の誇りでもあった。きっと他の部員からも要求されれば吹雪はあっさりと端正な顔に微笑みを浮かべ頷きひとつで雪村の幸福を切り崩してしまうのだろうけれど。それでも、未だ吹雪と雪村の2人きりの時間が維持されているのは偏に部員たちからの気遣いの連鎖に他ならない。練習終了から解散の号令を掛けるまでの雪村の落ち着かない態度、向かう視線の先、期待に輝く瞳を毎日見せつけられれば流石に察しが付くというもの。露骨な雪村の敬愛は吹雪の独占を可能にし、だからこそ敬愛も薄まらない。循環か悪循環かは解らない。ただひとつ、雪村豹牙が吹雪士郎を慕っているという事実が悠然と存在するのみである。
 吹雪士郎はコーチという立場上、練習中は部員たちに偏りも隔たりもなく接し、声を掛けている。手間の掛かる選手だった時代があることを自覚しているが故、その辺りは意識的に努力している。それでも自分の技を教え伝えた雪村には特別な思い入れを抱いていることもしかと自覚している。面倒を見ている部員の中では最も自分を慕ってくれていると目に見えて解るからかもしれない。些細な行き違いで拗れた関係が修復されてからはより一層雪村は吹雪の傍に陣取るようになっていた。これまで孤立に近い境遇に居た雪村に取って自身を認め、また自身も認める存在に出会えたことが至上の喜びと設定されているのかもしれない。何処か過去の自分を思い出させる雪村からの要求を無碍に出来ないのは、やはり吹雪が彼を可愛く思っているからだろう。本人に伝えると決まって「子ども扱いしないで下さい」と怒られてしまうのが難点だ。そういう所が可愛いのだとは伝えられないのだから。吹雪にとって雪村は、やはりどうしたって子どもに映ってしまうのだ。一サッカー選手として尊重はしているが、それでも。
 不機嫌丸出しの顔を吹雪に見られて子ども扱いされたくないと思いながら部室の扉を開けると、中には誰もいなかった。それもその筈で、もうとっくに部活は始まっている時間だった。係りの仕事を回されて生活習慣に関するアンケートのプリントを回収、保健室まで届けていた為に雪村は部活に来るのが遅れたのだ。回収自体はHRの時間に声をかけて直ぐに終わると思っていたので遅刻の連絡を誰にも頼んでいないというのに。事前に配られていた用紙を紛失した生徒数人の回答を待っていた所為で予定よりも多分に時間を食ってしまい雪村は機嫌を損ねたのである。
 そしてもう一つ、雪村の機嫌の降下に一役買ったのは保健室の身長測定器である。漸く回収した用紙を持って保健室に向かうと、保険医は居らず机にアンケートは引き出しに入れておくようにと書き置きがされていた。その通りに仕舞って、さあ部活に向かおうとした雪村の視界に身長測定器が飛び込んでくる。普段保健室には寄りつかないし、折角だから測ってみようかと近寄った。そして弾き出した測定結果に雪村は打ちのめされたのである。
 ――春先から全く伸びてなかった…。
 年頃の少年として悼むべき事態に悲しみではなく怒りを覚えるのが雪村の激しさだ。何より今の雪村は吹雪との差を縮めることを日常の行事としている。そしてそれは何もサッカーの技量に限った話ではない。心身に関しても当てはまるのである。特に身長は目に見える比較対象だ。そして幾ら年上といえども身長の伸びというものは必ず止まる。埋めがたい年齢差に喘ぐ雪村が、拘らないはずがないのだ。
 結局、未だ差を縮めることは叶わないのだけれど。嘆息して、雪村は自分のスパイクを探す。行き帰りは持ち歩くのだが、朝練から放課後までは部室に置いてある。だが朝練後置いたと記憶している場所には何もない。どうしたことだと視線を巡らすも見当たらない。そもそも床に備品以外の物が置かれていなかった。部活開始前に部室を掃除したのだろう。まさか置き去りだからと捨てられてはおるまいなと不安に駆られて視線を上げると――あった。
 壁に据え付けられた棚の上に、雪村のスパイクを入れた袋が乗っていた。また面倒な所にと思いながら、きちんとロッカーに仕舞っておかなかった自分が悪いのだと、これ以上機嫌を下げまいと自制する。さっさと取って練習に出なくてはならない。
「…届かない、」
 雪村の身長よりも高い位置にある棚は横長の板が壁に打ちつけられたら形状である為、手が届かない場合足を引っかけたりしてよじ登る術がない。また周囲を見渡しても、台座になるような物も掃除で排除されてしまったらしい。今日はどうやら厄日かもしれない。嘆きながら、爪先立ちからのジャンプを必死に繰り返しても雪村の手は袋を掴めない。何も丁寧に奥まで押し込んでくれなくて良かったのに。同年代の中でそれほど低身長なわけではないが、足りないという現実が腹立たしい。伸びていないという事実を味わった直後であるから尚更である。
 もはや地団駄を不満ばかりの苛立ちを抱えた雪村の背後から、すっと伸びてきた腕があっさりと棚からスパイクの袋を取り上げた。驚きで振り返った物の、腕と同時にジャケットも映り込んだ瞬間、雪村には背後に立つ人物が誰かなんて分かりきっていた。
「先輩!」
「やあ、妙な所にスパイク置いてるんだね。修行?」
「…ありがとうございます。あと修行じゃない」
「だろうね。…雪村はまだこの棚には手が届かないのか」
「ふん、直ぐに届くようになります」
「うん、そうだろうね」
 遭遇早々の子ども扱いに、雪村は練習に無断で遅れたことを詫びるよりも意固地になることが先走る。礼だけでも述べられたことを褒めてほしいくらいだ。
 吹雪も雪村の性格は熟知しているから、棘のある言動を制したりはしない。どれもこれもが可愛いものだ。子どもらしくあれない境遇が故に子どもらしさを利用するあざとさを持ち合わせていた自分とは違う、雪村のは素直な子どもらしさだ。
 普段から練習熱心な雪村の姿が見えなかったのでつい部室まで探しに来てしまったことを本人に伝えたら、過保護だと怒らせてしまうだろうかと吹雪は口を噤む。実際は、雪村はきっと喜ぶだろう。こんな風に気にかけて貰えるのは自分だけの特権だと。この齟齬は吹雪が雪村を理解していない訳ではなく単純に想定する感情が違うだけ。敬愛と恋愛は別物だ。
 スパイクを取り戻し、慌ててユニフォームに着替える雪村を、吹雪は部室の戸にもたれながら待っている。他の部員はストレッチからのランニングに差し掛かっている辺りだから、指示は特に必要ない。腕時計を見ながら、今日の練習メニューの大まかな時間を組み立てる。吹雪にすれば何の苦でもない沈黙が、雪村には気まずく思えたようだ。つい口を開いてしまった。
「…先輩がいた頃からその棚あったんですか?」
「うん?そうだよ」
「先輩はいつぐらいに手が届いたんですか」
「んー、……今!」
「はあ?」
「あれ、雪村に僕の中学生の写真見せたことなかったっけ?僕成長期来たの高校に入ってからだから、中学はずっと平均身長以下だったんだよ」
 微笑みながら、吹雪が「これくらいだったかな」と手で示す高さは確かに低い。雪村の身長よりも。身長の伸びを成長期に懸けたのだろう。如何にも大人の身の丈な吹雪が、自分よりもチビだったなんて俄には信じがたいが雪村はその過去に縋る。それならば、今後次第で吹雪の身長を追い抜ける可能性だって充分に有り得る。雪村を子ども扱いする余裕の微笑みを困惑と焦りに染めることだってきっと出来る。俄然やる気の出て来た雪村は己の掌と棚とを交互に見比べる。雪村に、中学卒業までの目標が決定した瞬間であった。




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