山野バンが失踪し、それについて彼の親友である青島カズヤがある一定の理解に及び仙道ダイキが事態の傍観を選択し、大空ヒロと花咲ランが無関心を装い自由気儘に日々を過ごしている。そんな時でも宇崎拓也はタイニーオービット社社長として仕事に精を出している。
 ディテクターの騒動が沈静化し、LBXの反逆に対する世間の認識も是正された。拓也はNICSの活動終了と共に以前の役職へと復帰した。手土産と手段は自らの椅子を危うくした案件の処理と解決に自ら立ち会ったこと。世界平和への貢献。それから秘書の霧島紗枝による見事な下準備もあって拓也の後任社長であった沢村宗人の体たらくを小難しい表現で糾弾する書類を纏め上げて役員会で縛り上げた。結果あっさりとその座を明け渡して頂き、そのまま何食わぬ顔で業務を再開した。社員たちも元よりそうなることを待ち望んでいたようで、拓也の手腕を手際が良いと褒める人間はいれども強引だと咎める人間はいなかった。研究員として働いている石森里奈だけはもっと早く帰ってきて欲しかったと肩を竦め、拓也が不在の間沢村が如何に無能だったかを滔々と説き続け、結果無計画に分配された部署ごとの研究費予算の見直しを要求された。目の前に積み上げられた書類の山々、「急いでね」と言い残して自分の職場に戻る里奈の語尾にハートマークが見えた気がするがそれは愛情の印ではない。呆然とその書類の山を見つめる拓也に、隣に控えていた紗枝は小さく「愛が鋭いですね」と呟いた。その時の拓也はのろのろと頷いて、聞こえているという意思を示すことしか出来なかったけれど、許されるのならば叫びたかった。
 ――そんなツンデレは必要ない!!
 と。拓也はその日社長に復帰して初めて夜更けまでの残業を強いられたのである。


 さて、拓也が二週間ほど時間をかけてタイニーオービットの子会社への訪問を終えて久しぶりに本社に出社した朝。おや、とどこか違和感を覚えて立ち止まった。入り口をくぐりすぐに広がるエントランスには既に出社している社員たちがちらほらと。固まって談笑している者たちや慌ただしく奥のエレベーターへ消えて行く者。特に際立って妙なところはない。飾られた花の種類が変わっていたとしてそれはこれまでも一定の期間毎に行われていることであって違和感として認識するようなことでもないはずだ。では何が拓也の意識の端にこうも引っかかるのか。数分間腕を組みながらその場に立ち尽くして、考えが。仮にも社長が、最高権力者が玄関エントランスにいつまでも突っ立っているというのは如何にも邪魔であるのだが、誰もその旨を拓也に進言する物はいなかった。ちらりと視線を送る者は大勢いたが近寄っていく者はいない。結局拓也は違和感の正体を掴むことは出来ないまま、彼の後ろにあった扉から出勤してきた里奈に「邪魔よ」ヒールのつま先で膝かっくんを喰らうまでそこに立ち続けていた。
「あなた嫌われているんじゃない?」
「やめろ里奈、そういう確認しようのないもしもを提示されると俺が如何に振り回されやすい体質かお前知っているだろう」
「だから言っているのよ。でも簡単だわ。聞いて回ればいいのよ。自分のことを好きか嫌いかって」
「それは一種のパワハラではないか?」
「良く出来ました。精進なさい、新社長さん?」
 ふっと意味深な微笑を残して里奈は彼女に与えられた研究室に入って行った。最近何かと手厳しい里奈に、自分は何か粗相をしてしまっただろうかと己の行いを顧みても心当たりはない。つまりそれはこの先一生こんな風に痛い所を突かれながらのお付き合いが続いていくと言うことなのかもしれない。ちょっと憂鬱。
 社長室に入ると、紗枝はまだ来ていないようだった。デスクに置かれていたファイルを確認しながら椅子に座りパソコンの電源を入れる。視界の端に映っていた黒い画面が明るくなったことを捉えながら手元の書類に目を通していく。どうやら自分が本社を開けていた間も通常業務は滞りなく行われていたようだ。まあ、それもそうだろう。社長だって代わりの利く組織の一ピースに過ぎないのだから。務めているのは、社員と変わらぬ人間だ。拓也としては、自分でも勤まってしまうものだからなあというのが本音。言葉にすると弱みになるから言わないが。
「――ん?」
 起ちあがったパソコンのデスクトップに見覚えのないファイルがあることを見つけ、拓也ははてと首を傾げる。先にメールを確認してみても要確認のファイルを送るのでという旨の用件はない。あったとしても拓也が手を加えていないのにそれがデスクトップに移動しているのはおかしい。それはつまり、自分がこの部屋を留守にしていた二週間の間に誰かがこのパソコンを開いてファイルを作成したということ。一番可能性があるのは秘書としてこの部屋に出入り自由な紗枝であるが、彼女はこの二週間拓也と共に行動していたので疑うには弱い。数日間は本社に出社させたがそれでも。となると次は里奈辺りが怪しいが先程顔を合わせても何も言われなかったし、わざわざ人のパソコンに細工するくらいならば職場のパソコンではなく個人的な方にメールなり電話なり、嫌味なり不満なり雑談なり持ちかければ良いだけの話だ。
 そうして思い浮かぶ限りの人物内で犯人を割り出そうとしたけれど、まずはファイルの中身が何なのかを確認しなければそれも難しいなと言う結論に達した。ウイルスなどではなければいいのだが。念の為、社内のパソコンとの回線は遮断しておく。カーソルを、飾り気のないファイルのアイコンへと運んでダブルクリック。開かれたファイルには大量のプログラムの羅列。画面を覆い尽くす量のそれは上から下へと徐々に流れていき、拓也がそれを解析するよりも先に果たすべき役目を終えたらしく停止した。パソコンが。ぎょっと目を剥く拓也に、まるで「驚いた?驚いた?」と追い打ちを駆けるように画面は電源を着ける前と変わらぬ黒、黒、黒。やはりウイルスだったのかと納得するやら怒りにかられるやら。不用意に開いたのは自分だけれどもと少しでも発散しようのない感情を高めないようにと意識するものの、しかしこれでPC内のデータが全て消去されていたらとんでもないことだぞと椅子を蹴って立ち上がる。どうしよう、私はとっても途方にくれています。そう言わんばかりの絶望を滲ませた表情で拓也が停止していると、社長室に扉が開いてそこから紗枝と里奈が揃って入って来た。彼女たちは拓也の心情を察しながらもご愁傷さまと笑って言った。
「大丈夫よ。バックアップは取ってあるから。昼前には戻せるわよ」
「しかしお見事でしたね。流石は山野博士の息子さんです。才能ですかね」
「――バンの仕業なのか?」
「私もちょっとだけ手伝ったけどね」
「里奈!やって良いことと悪いことがあるぞ」
「やらなきゃいけないことよ。大人の責任。特に私たちはバン君を子どもとして扱う義務があるわ。平和になった今だからこそね」
「社長だって無責任では通せませんよ」
「俺が一体何をしたというんだ…」
「そうね、敢えて言うなら好かれ過ぎたわね。山野博士にやっかまれないように気を付けなさい」
「意味が分からないんだが」
 力なく項垂れて、大の大人が若干涙を滲ませた声音で弱々しく説明を求めてくる。連日の里奈からの攻撃といい、可愛がっていた元上司の息子からの予期せぬ反逆に流石に拓也も凹んだらしい。紗枝と里奈は顔を見合わせて、難しくもない種明かしをしてあげることにした。滅多に座ることのない、無駄に質のいい社長室のソファに腰を下ろしながら。
 山野バンが失踪した。まず大前提として頭に置いておきなさいとの里奈の言葉に、拓也は山野バンが失踪したと数回繰り返したと思うや、座ったばかりの席を立って顔を青くしながら「何だそれは!」と声を荒げた。警察か、いや八神を呼ぶか、それともカイオス長官に協力を仰ぐべきかと騒ぎ始めた拓也の顔面に里奈の投げたファイルが直撃した。
「説明するから座りなさい」
「そんな悠長なことをしている場合か!バンが失踪したんだろう!?」
「そう、タイニーオービット社の協力の下、現在も世界のどこかに失踪中よ」
「予算は社長の来月の給与から天引きさせていただきます」
「は!?」
 予想外の展開に、拓也は再び席に着くタイミングが掴めずにいた。構わず説明を再開した里奈の話を聞き終わったところで、拓也は脱力して漸くまたソファに腰を沈めた。
 曰く。半生とも呼べない短さながらも自らの一生を振り返って、バンはちょっとばかし父親について思うことがあったらしい。勿論きっかけはディテクターの件であろうが、それによって父親は絶対的に正しい存在ではないと心の片隅で理解してしまったバンの感情は過去に遡りその中で絶対であったからこそ許せたことを思い出す途中で躓いてしまったのだ。このままでは嫌悪にまで至ってしまうのではないか。現在だって愛情だけで父親の全てを語れはしないけれど。そんな鬱屈と考え込む日々を過ごすのはよろしくないと、気分転換に母親の了承を得て失踪することにしたそうだ。何だそれはと拓也は思ったけれど、なんとか黙って続きを促した。誰にも行先を告げるつもりはないけれど、それは本人にも未定な部分が大半だったから。となると装備の充実は欠かせない。手放せないLBXの整備となれば殊更注意を払わなければならない。あまり目につく所にバンが姿を現せば情報が拡散してあっさり姿を鹵獲される可能性がある。気取ったりひけらかすつもりはないが、初対面のLBXプレイヤーがバンのことを知っていても不思議がれなくなるくらいには彼は有名人なのだ。
 そんなこんなで、事前の整備を充実したものにする為に、バンは失踪前にこのタイニーオービット社に立ち寄ったのだそうだ。ちょっとしたコネで結城や里奈にLBXの整備をお願いできないかとエントランスに呼び出された時は驚いたものの二人は二つ返事で彼の願い事を聞き入れた。そして結城が作業に没頭している間、バンと二人きりになった里奈は色々と話をしたらしい。突然の願い事の理由は勿論尋ねた。バンは、上手くはぐらかせたら言わずにいたかったのだろうが、その辺りの駆け引きでは大人の女性に叶う筈もなくあっさり失踪するという旨を吐き出した。本来ならここで止めるべきだったのだろうが、バンよりも父親との付き合いが長かった里奈はそれもまあ良いだろうとあっさり背を押してしまった。しかし彼が失踪するとなると心配する人間の数も膨大なので、匿名で協力してあげるからよほどの無茶は慎むようにと約束を取り付けて。そして続く会話の中で、拓也が二週間ばかりここを留守にしていると聞いた時のバンの反応が目に見えてがっかりしていたものだから、里奈はそこまでショックなのかしらと思い、尋ねた。するとバンの返事は予想を遥かに上回る衝撃を彼女に与えた。
「最近父親だったらなあって思えるくらいには好きだったから、会っておきたかったんだ」
 あの、一年前は父親の為に世界の危機に迷わず突き進んだ少年が、まさかそんなことを言うなんて。一年前のバンと同じくらいの愛で以て息子を見守っている筈の山野博士にこの言葉が聞かれたら拓也は散々な目に会いそうだなとは思ったが告げ口する趣味はない。しかし唆す趣味はあったのかもしれない。その日、珍しく紗枝が拓也とは別行動で雑務を処理しに本社に出ていたのも理由の一つだろう。
 そこまで大好きな拓也に会えないのは残念だから、此処は一つ、悪戯でも置き土産に残して行ったらどうだろう。
 唆す里奈も里奈だが瞳を輝かせて乗っかってしまったバンもバンである。そして父親の血なのか、里奈の手助けはあったもののそのプログラムの大半をバン一人で完成させたそうだ。拓也の仕事用パソコンのデータを真っ新にするプログラム。人はそれをウイルスと呼ぶ。
 「何でそんなしょうもないことを唆したんだ」とソファで項垂れる拓也に、里奈は「愛以外に理由があると思うの?」と不敵に微笑んだ。紗枝も似たような笑顔を浮かべているから、里奈と同意見と言った所だろう。そういうことにしておいた方が、拓也の心としてはまだ平穏かと息を吐く。少しは落ち着いたかという所で、里奈は浮かべていた笑みを一層深くして、言った。
「因みにバン君が貴方のことをお父さんみたいに好き、ということは社員の大半に噂として流れているわよ。今朝の違和感もその所為じゃないかしら。手、出しちゃダメよ。何度も言うけど、山野博士に怒られるから」
「俺はまだ子どももいなければ結婚もしていない独身男だぞ!?」
「知ってるわ。ここで実は妻帯者で隠し子がいますとか言われたら今度はバンと協力して復元不可能なくらいこの会社のデータに損害を与えるわよ」
「愛が重い!」
 愛されるようなことをした貴方が悪いのよ、と里奈は話を締め括った。それは果たして本当に悪いことだろうか。それ以前に自分はバンに愛されるようなことをしただろうかと不思議に思う。紗枝は助け舟を出すように、「頼りになる大人が、頼りに出来る場所にいてくれるということは存外嬉しいことだったのかもしれませんね」と独り言のように呟いた。それはやはり、根底にある父親と比べたらということだろう。
 拓也は師に対して失礼だなとは思いながら、バンの心情を慮ればまあ「父親がああだったからなあ」と妙に納得する他ない。里奈は話すことは全て話したからと既に拓也のパソコンを復旧させようと作業を始めていた。普段は社長である拓也しか座ることの許されない上質な椅子に座りながら。きっとバンも、あの椅子に座って悪戯が成功するかどうか胸を弾ませながらキーボードを叩いていたのだろうか。そう考えると、複雑な胸中に少し和やかな気持ちが広がっていく。もしも里奈は紗枝がこの拓也の気持ちに気付いていたのならば「そういう父性でバンを甘やかしたから愛されたのだ」と突っ込んでいたのだけれど。しかし作業に集中している里奈は気付かない。ソファに座ったまま、内心は読めないまでもその表情が穏やかになったことを確認した紗枝は、来月の彼の給与が少しばかり減っていても理由が山野バンならばまあ許すのだろうなと見込んだ。そしてその見込みは正しい。
 協力していると言ってもバンの行き先は彼がその時々の気分で変更、決定する物なので二人とも現在地までは把握していなかった。つまりまさしく失踪なのである。そのことに再び顔を青くした拓也が「警察、八神、カイオス長官」と連呼し始め女性二人は「落ち着きなさいお父さん」と声を揃えて彼の顔にファイルを投げつけた。因みにその日、午前中の騒動の所為で押してしまった仕事を勤務時間内に終わらせることの出来なかった拓也はひとり残業に勤しむことになるのである。
 こうして突如宇崎拓也は襲撃されたわけだが、それは彼の父性に従って僅か数人の胸の内に留め置かれた。


20120820