山野バンが少しだけ申し訳なさそうに頭を掻きながら川村アミの部屋を訪ねてきたのは、もう夜の十一時を過ぎた頃だった。中学生が出歩くには遅すぎる時間帯。住宅街の中、ご近所という気安さから時折バンはこういう無遠慮なことをする。主にテスト前だが、その日は別段テスト前という訳でもなく、バンも慌てふためいている様子はなかったので、アミは不思議に思ったことを覚えている。
「どうしたのバン」
「んー、別にどうも。そういえばどうしてるかなって、ちょっと気になったんだ」
「はあ?どうせ明日も学校で会うじゃない」
「今日も一緒に帰って来たしね」
「わかってるじゃない。バン、具合悪いの?」
「いや、元気だよ」
 有り余ってるから、少し発散した方が良いのかもしれない。そう苦笑を零しながら呟いたバンに、アミはもしかしてこんな時間にLBXバトルがしたいのかと勘繰ってしまったがその時バンの手はCCMもLBXも手にしていなかった。とことん様子のおかしいバンに、アミは段々と訝しむよりも心配の色を浮かべる。
「なあ、アミ」
「なあに」
「宿題って出てたっけ」
「…今日はないわよ。でも昨日出された課題が明日発表。終わってる?」
「え?あーいや、手つかず」
「あんたねえ!写させてはやらないからね!」
「あはは、そこを何とか」
「何とかじゃない!」
 妙に陽気なバンの口調がとうとう薄気味悪い。まるで後ろめたいことを誤魔化そうとしているみたいな、悲しいことを隠そうとしているみたいな。晒さなければばれないというのに、バンは寂しがり屋かといった風にアミの前に姿を見せる。それが少しだけ、頼られているような気がして嬉しいだなんて口が裂けても言えやしない。言った途端、バンは自分の不用意さに気付いてこれまで晒していたものをアミの前から引っ込めてしまうだろうから。
「全く、ほんとに何しに来たのよ」
「ほんとに顔見に来ただけだよ」
「――バン、どっか行くの?」
「へ?何で?」
「だって突然、毎日顔突き合わせてるのにわざわざ見に来るなんて邪推されても仕方ないわよ」
「そっか、そういうもんだね」
「バン?」
「ねえアミ、俺たちは、幼馴染だよね」
 一瞬、バンの瞳に暗い影が落ちた。玄関で立ち話をする形で向き合っている二人、バンの背後上空には月が薄ぼんやりと雲に覆われている。アミは、突然の言葉にただ頷くしか出来なかった。今までそんな、自分たちの関係を幼馴染で形容したことなどなかったから。
 アミの戸惑いなど感知しないのか、バンは彼女の肯定に満足そうに微笑んで「それじゃあ」と踵を返してしまった。突然やって来て突然帰る。前者はこれまでも何度かあったが後者に関しては今回が初めてだ。話の纏まりも事態の解決もアミには何一つすっきりとした感覚が伝わってこない。だから、引き留めようと咄嗟に伸ばした腕がバンの肩に触れることもなく空を切った瞬間、アミの胸に絶望に近い恐怖が広がった。大声を出して呼び止めなかったことを褒めて貰いたい。時間が時間だったのだ。バンは一度、アミの家と道路の境界線を跨ぎながら振り返った。

「      」

 静かな夜の住宅街。それなのに、アミにはバンの呟いた言葉が聞き取れなかった。聞き返すことも出来ないまま、バンは小さく手を振ったかと思うと駆け足で自宅に方角に向かって去って行ってしまった。
「ごめんねアミちゃん、バンったら昨日から失踪してるのよ」
 翌朝、いつも通りバンを迎えに行ったアミに真理絵から寄越されたのはとんでもない言葉だった。事件性はないし、自分から帰って来るから心配はいらないけれどどこにいるかはわからない。連絡が入ることもないでしょう。真理絵はきっぱりと言い切った。アミは処理の追いつかない頭を必死に稼働させて、物わかりのいい振りをして彼の家を後にした。尋ね募りたい衝動は確かに存在しているのに、どこか頭の中の冷静な部分がああそうかと納得してしまっている。正反対の感情がぶつかり合って言葉を発することが出来なかった。
 ただ、たった一つ理解した。昨夜の、バンが言い残した言葉。

『いってきます』

 何だというのだ。行ってらっしゃいだなんて笑顔で送り出してやると思ったのか。知っていたら、もっと違う言葉を掛けたのに。問い質して、引き留めるなりついていくなり選択肢をアミの中にも用意できたのに。イライラが募る。けれどきっと、バンはそんなアミだから何も言わなかったのだ。そして追い駆けて来ないでと釘を刺す為にせめてもの義理として顔を見せに来た。
 ――なんてひどい。
 涙が溢れそうになる。これから学校に行かなくてはならないというのに。きっと、通学路の途中で待っているであろうカズに事情を説明するのはアミの役目だ。出来るだけ、真理絵の緊張感のなさが伝わるように、大袈裟にならないよう心を配って説いてやらなければなるまい。普段の優等生のアミが必死に顔を出そうとする。それを妨害するのは、バンに対する何故と言う疑問と怒り。
 一緒に行きたかった、追い駆けたい、探したい、連絡を取りたい。湧き上がる感情が得意なものだとは思わない。バンの取った行動の方がよっぽどだと思う。けれどアミはそれをしてはいけないのだ。それを理解できてしまうことが堪らなく寂しい。それだけ近くにいたでしょうに、と。貴方がそんなことをする理由が私にはわからないわ、と。とうとう溢れだした涙が一つ二つとアスファルトの地面に染みを作った。その光景をぼんやりと見下ろしながら、アミは今日から自分の日常が少しだけ狂ってしまうことを確信した。そしてそれからバンが帰って来るまでの間、川村アミはほんの少しだけ荒れた。ありとあらゆる、至る所のLBXプレイヤーたちに勝負を挑み薙ぎ倒してきた。その雄々しさは彼女の荒れが収まってからも暫くの間語り草になるほどだった。巻き込まれた側からすれば不良に絡まれたのと変わらないくらいの凄みと怖さを植え付けられたのだからたまったものではない。けれど仕方ないのだ。
 だって、川村アミは山野バンのことが好きだったのだから。



20120920