それは静かな泣き声だった。窓辺に身を乗り出して、階下からの言葉に微笑み、頷いて、手を振って見送る。相手はきっと野球部の誰かだろう。教室の真ん中辺り、自分の席に座っている紋乃からは栄口の会話の相手は見えなかった。声だけで野球部員の誰かを判別できるほど、彼女は野球部と直接顔を合わせて関わったことがなかった。
 短い真夏が過ぎ去って、訪れた秋は思いの外夏の名残を引きずって綾乃を思い出に縛り付けた。覚えてしまった顔と名前、話したことはないけれど同じクラスの野球部の部長づてに聞かされた感謝の意は偽りを含んではいなかった。踊りたくて、ただそれだけでチアガールを買って出た。善意ではあったけれど、本当に自分たちの欲求に従った結果だから、お礼を言われてしまうと同級生が相手でも畏まってしまう。球場で、独特の熱気に胸を弾ませて、白球の行方に一喜一憂して。礼を言わなければならないのは寧ろこちらの方、そう綾乃は思ったけれど、親しみの薄さが言葉を紡ぐことを妨げて何も言えなかった。
 マネージャーの篠岡には打ち明けて見たけれど、既に次の目標に向かって行動を起こしている人たちを思い出話で引き留めてしまうのは申し訳なくて、最近では篠岡との会話に野球部や夏の大会の話題を持ち出すこともしなくなった。友人同士、それでも会話はそつなく進んでいく。
 栄口が野球部の副部長だと知ったのは、彼がやけに7組の教室にやってくる機会が多いことに気が付いたから。勿論、他の野球部員に比べたらという限定的な意味ではあるが、顔と名前を憶えてしまうとやけに栄口の声が耳に着いて、入り口の所から部長の名前を呼ぶ彼の姿を確認してしまう。それを、篠岡に告げてしまったのは良くなかったかもしれない。どうも微妙な笑顔で当たり障りのない栄口の情報を押し付けられてしまった。可愛らしい顔が、にやけそうになるのを無理に堪えていて歪になって悲しかったので思いきり頬を抓って伸ばしてやったのはもう一ヶ月以上も前の話だ。
 その後篠岡が栄口に紋乃の顔と名前を一致させに動いたのか、目が合えば挨拶を交わす程度に面識を持ってしまった。困ってはいないが、どうにも落ち着かない。

「――栄口君は、」
「うん?」
「副部長さんなんだね」
「そうだよー、篠岡に聞いた?」
「うん、ちょっとびっくりした。阿部君が副部長っていうのは知ってたから」
「あはは、ポジションの都合と、クラスの都合でね、副部長が二人いるんだ」
「そっか。でも、良い組み合わせだと思うよ」

 もう一人の副部長である阿部と会話したことはないが、日頃の生活態度を見ている限り部長と他の部員を橋渡しする役目を全うしているようには見えなかった。野球を中心に据えているものの、その中心に野球部の仲間たちが含まれているかははっきりしない。そんなマイペースな人間だった。その点、遠巻きに見つめているだけの印象で語らせて貰えば栄口は他者に対して気遣いの出来る人間のように思えた。そういう意味で、良い組み合わせだと綾乃は言った。栄口は紋乃の言葉に、明瞭な返答を寄越さなかった。
 栄口は窓辺から綾乃を振り返る。陽光が彼の顔に影を落としてはっきりと表情が窺えない。それでも、綾乃にはただ悲しげであると映る。何故だろう、その答えはどこからも返ってこないまま、教室を出て行く姿を見た、栄口の目当ての人物である部長も帰ってこない。二人きりであるものの、会話をする必要はなかった。だから一人きりが二つあるのと変わらない。それでも先に声を掛けてしまったから、綾乃は栄口から目を逸らしてしまうことができない。机上に広げた委員会のプリントの内容などとっくに頭の中から抜け落ちている。

「一番上って、しんどそうだよね」
「――え?」
「だから副部長くらいなら、やってもいいかなって思ったんだ」
「……そう、」
「格好悪いかな」

 紋乃の答えなど求めていないのか、栄口の言葉は疑問ではなく自虐に近い。
 自分から望んだわけではない地位を、他人に求められれば快諾し無難にこなす。それは、ふとした瞬間に自分を怠惰な人間なのではと疑わせる。向き不向きを冷静に理解しているだけの後退は、他人には見栄っ張りに映るのかもしれない。
 そしてそんな他人への見栄えを気にする自分の弱さが重たく圧し掛かる。優しさを弱さに変換してはしんどかった。けれど無意識に、囚われてしまう薄暗い闇があって、栄口はきっとこのループからは逃げられそうにないと諦めている。

「……栄口君は、格好いいよ!」

 おもむろに吐き出された紋乃の言葉に、栄口は面食らう。綾乃も、顔を真っ赤にしながら変な意味じゃないからねと言い募る。
 ――変な意味ってどんなだろう。
 それを察せないほど、栄口は鈍くない。だから副部長だってやっていられる。阿部だったら、きっとわからないのだろう。そして、からかいの気持ちでもその意味を突いてはいけないことも栄口はきちんとわかっている。だから素直にありがとうと礼を言って、その話題を引き取った。
 綾乃は目に見えて安堵に肩を降ろし、栄口は少しだけ、格好いいという言葉の真意を問うてみたくもあった。どうせあの夏の、野球部の全般を指したお世辞の類であることは想像がついて、栄口勇人という個人を特定しての言葉だったら馬鹿みたいに舞い上がれるのだけれど。

「……栄口君?」

 あまりに無反応な栄口に、綾乃が様子を伺って、栄口は何でもないよと微笑みながら切り返す。
 力のない微笑みに誤魔化されてしまう距離がもどかしい。綾乃は栄口が部長である花井を待っていると思っているのだろう。
 けれど、先程栄口が窓から階下に向かって話し掛けていた相手が花井なのであって、そろそろ部活に向かわないと遅刻してしまうということ。用もない、綾乃が一人残っているだけの余所の教室に栄口が居座っているということ、その意味が察せないほど、やはり栄口は自分に対して鈍くはなかった。



20130529