投げつけられたタオルが塞いだ視界に一瞬映り込んだ黒髪を、叶は信じられない思いで見つめ、そこで彼の意識は途切れた。
 水分補給を怠ったつもりはないが、現状から察するに足りていなかったのだろう。傾度の熱中症で倒れた叶が目を覚ましてから真っ先に見たのは馴染みのない保健室の薄暗い天井だった。休日の保健室は明かりがついておらず、ベッドの周囲をカーテンで覆ってしまえばどこかひんやりとした空気が漂う。保健医もいないのだろう、広がる静けさがこの部屋が叶以外の人間の不在を教えてくれる。それから、額に乗せられていたタオルを手に取ると、初めは濡らされていたのであろうそれは既に乾ききっていて随分と長い間自分は眠りこけていたのだなと理解する。時計は見えない。
 意識が途切れる寸前の記憶を呼び起こす。突然眼前を塞いだ布地、怒鳴る声、揺れた黒髪。自分の前にいた人物が誰だったのか、叶は頭の中でその姿を描く。わかりきっていることで、だから名前を呼びたくはなかった。スポーツ選手としての意地か、男としての意地か、境界線は曖昧で、けれどあいつの前でぶっ倒れたのだという事実を再認識する度に叶の握り拳に籠もる力は強くなっていく。熱中症は不甲斐なさであり弱さだった。片意地を張り合う関係は小学生の頃からだった。今更取り繕いようのない無遠慮があり、今更崩せない偶像もまた確かに存在している。

「……何で三橋が野球部のグラウンドにいるんだよ」

 苦々しい面持ちで漸く呟いた名前と疑問。今までは三橋と名前を呼べば無意識に脳裏に二人の人物を思い浮かべていた叶も、その内の片方と幼少期のように名前で呼び合う関係に戻ってからは三橋の二文字に対応するのは一人しかいなくなっていた。斜め向かいの家に住む、傍から呼べば幼馴染という関係になる女の子。三橋瑠里、叶とは性格の不一致も相俟って小学校時代から仲良く遊んだ記憶などほぼ皆無という存在。それならば、進学し男女別校舎という校風に染まって思春期を理由に互いを無視する程度に遠ざかればいいだけの話だった。だがそれが出来ないまま、過去の印象を流してぎこちなくも流暢にもなれない付き合いが続いているのは、やはり三橋廉という存在に繋ぎ止められているからなのだろう。特に、GWの合宿で叶が三橋と練習試合をすることを聞いていなかった瑠里は、そのことを糾弾しに叶を問い詰めにもやって来たし、それ以降中学時代の野球部の話題を避けていた気まずさを払拭したせいで顔を合わせれば世間話程度に廉を話題に持ち出して話すようになっていた。かといって、三橋廉を挟まなければ叶は瑠里に抱く感情など口煩いご近所さん以外の何者でもないし、男女別校舎の学校の敷地内で話している所を誰かに見つかれば面倒な噂を起こされ辟易もしている。それはきっと瑠里の方から見た自分も大差ないのだろう。それでも、相手を思いやって感情をコントロールするほど叶は大人ではなかった。

「――起きたの」

 己への不甲斐なさに対してか、理不尽であれども自分の領域のグラウンドに姿を見せた瑠里への苛立ちか、兎に角叶の頭の中であったり腹の中であったりがぐるぐると渦巻く中にまたしても飛び込んできた馴染みある声。
 ベッド脇に立つ瑠里の姿に、叶は思わず仰け反って驚く。誰もいないと思っていた保健室に、まさか彼女がいるとは思わなかった。しかし叶の反応に、瑠里は「きちんと失礼しますって言いながら入って来たのに何でそんなに驚いてるのよ」と訝しむ。ご丁寧に、叶の驚きと不思議を纏めて解消してくれる言葉だった。
 瑠里はひとつのコンビニ袋の持ち手を両手で片方ずつ持っており、それでは中身が取り出せないだろうにと叶は無意味な仕草に眉を顰める。それが、倒れた叶の為の買い物だという察しがつけられない辺り、叶は瑠里に期待をしていないし、それをしないほど瑠里は叶に優しくして来なかった。

「具合、どう?」
「あー、寝たらよくなった」
「そう、でも今日は起きたら帰れって監督さん言ってたわよ」
「は?」
「あとこれ、飲み物買ってきた。ゼリーとか入ってるし、食べられるなら食べてね」
「ちょっと待て、お前やっぱり野球部のグラウンドにいたよな?」
「うん、ちょっと用事があって。あ、野球部にじゃないから。顧問の方ね、」

 瑠里は手にしていた袋をベッドの叶の手元に落として、中身を淡々と告げる。瑠里が保健医だったのならば、単に仕事をこなしているだけのような無機質。だが、本来瑠里は叶の為に買い物などする必要はない。目の前で熱中症で倒れたからといって、状況から考えれば野球部の誰かが担ってやればいい負担。
 休日にもかかわらず、学校に用事があるというだけで纏った制服のスカートと、そのポケットから取り出した携帯で時間を確認した瑠里は、突然手を伸ばし叶の額に触れた。病人の自己申告程あてにならないものはないのだと言わんばかりに「うん、熱くないね」と納得して手を引っ込める。彼女の手が冷たかったことと、そう感じる触れ合いが初めてだったこと。叶は様々な驚きで身を硬くしてされるがままとなっていた。そんな叶の不自然も、瑠里の目には留まらない。病人という冠がつくだけで、大抵の人間には優しく出来るものだと瑠里は思っている。

「ねえ、もう動けるなら一緒に帰ろうよ」
「――は?」
「何、まだ寝足りないの」
「そんなんじゃないけど、何で?先帰れよ」
「だって私が帰ったら叶野球部の方に顔出すでしょ?それでちょっとだけとか言って投げるんでしょ?私、畠君とかから頼まれたもん、見張っといてくれって」
「………」
「図星ね。ほら、さっさと支度する!」
「うるせえ、わかったよ!」

 完全に抜け道を失った叶は、ふてくされながらも荷物と共に置かれていた制服に着替える為、カーテンの仕切りの向こうに瑠里を追い出した。瑠里が叶以外の野球部の面子と接触を持ったことにどうしてか憮然とした気持ちになる。個人同士の付き合いに叶が口を挟めるはずもなく、自分が倒れた所為で取り交わされた会話が大半だということは察しがつくのだが、どうも自分の縄張りと定めている野球部に居心地良さ気に収まる瑠里の姿というものは想像して良い気分にはなれない。
 ただでさえ、叶と瑠里が二人でいる所を見られて一番面倒くさい反応をするのが野球部の連中なのだ。叶にはよくわからないが、瑠里の見た目がストライクど真ん中の人間もいるし、一般的に見て可愛らしいと称される容姿をしているらしい。一体着替えながら何を思いだしているのだと、眩暈を起こさない程度に緩く頭を振って雑念を追い払う。
 いつだって自分のことで手一杯な、病み上がりの叶には、野球部の連中に頼まれたからといって叶の看病を引き受けることを断らなかった瑠里の心境など読み取れる筈がない。それでも、これ以上待たせれば白いカーテンの向こうで瑠里の顔が不機嫌に歪むことだけは、付き合いの長い叶にははっきりとわかるのだ。



20130512