「俺榛名のこと好きだったんだよ」
 部活中の打ち合わせのように真剣な声音で、けれど問いかけに気のない返事をするような味気ない態度で阿部は言う。拾われなくても構わない独り言の類であれば良かったのだけれど、恐らくこれは自分に向けて放たれた言葉なのだろうと、栄口は阿部に視線を向けた。
 野球の大会で公欠扱いになった授業の穴は、正直皆勤賞を目指す人間にしか有り難みがない。風邪で休んでもノートの補完は自己責任なのに、公欠扱いだと翌日にプリントを渡されてしまうらしい。数学だったことが阿部にはせめてもの救いだったが、大会明けということで珍しく部活がない日の放課後に一人居残ることになってしまったことは正直口惜しい。尤も、日中の休み時間に問題を解き終えてさっさと帰ってしまった花井たちから見れば自業自得でしかないのだろう。阿部の前の席、横向に座りながら栄口は待っていた。一緒に帰ったりは滅多にしないが、今日は偶々寄り道の約束をしていたのだ。放課後教室まで迎えに来た栄口は阿部の事情に昨日自分のクラスに数学がなかったことを素直に喜んだ。それから、数学ならば阿部も時間を取られないだろうと彼の前の席に陣取ったのだ。七組の教室には、既に阿部と栄口以外の生徒はいなかった。自分の教室では固まって話に盛り上がる女の子たちがちらほら残っていた。中には他のクラスの子もいて、栄口は自分の教室であるにも関わらず妙に居心地が悪くなってしまい慌てて逃げ出してきたのである。
「榛名って榛名さん?」
「他にいなくね」
「まあ俺はそうだね」
「俺だってそうだけど?」
 阿部の言葉に、念の為確認を入れてみるとやはり彼の言う榛名とは武蔵野森に進んだ彼の先輩のことであるらしい。春の大会で再会し、単純に投手としての実力を褒めてみれば阿部の口から飛び出したのは「最低」の二文字で随分な印象を持っているものだなと違和感を覚えた。直後同じ投手として目に見えて阿部の言葉の意味を気にしていた三橋の為という理由を付けて、栄口は阿部と榛名の昔話を聞かせて貰った。榛名を擁護する気もなかったが、阿部を励ますこともなかった。所詮は過去のことで、西浦で三橋という彼とは正反対の投手と組んで歩き始めたのだから今更どうということもない類の話だと思ったのだ。何より阿部はそういう内側に踏み込むような振る舞いは余計な干渉だと拒むだろう。問われたから答えた、それだけだった。
 けれど、阿部の中で榛名元希という人物は存外根が深かったようだ。栄口は、思いも寄らない阿部の告白に掛ける言葉が思い付かない。優しいだけの相槌は得意な方なのに。阿部の課題が終わるまでの時間潰しの為に開いていた携帯の画面が暗くなる。省エネの働きを視界の端で捉えながら、この沈黙と停滞は時間の浪費だと何の反応も出来ない自分を棚に上げて判じる。
 阿部は、不意を突くように何気なさを装ったくせに今ではペンを持つ手を止めてじっと栄口の眼を見つめていた。視線が絡まって、それを自覚した瞬間、呼吸すら憚られてしまう。静謐には遠く、窓の外からも遠くの廊下からも距離を挟んだ喧騒が届いている。今すぐその中に飛び込んでしまいたいと栄口は思った。阿部が今自分から引きだそうとしている言葉が何なのか、朧気ながらも察してしまう。けれど本気で栄口を揺さぶりたいなら、過去の淡い恋心など晒して欲しくはなかった。いつか過去になると知りながら、其処に悲しい別れを設けるならば栄口は口を噤み心穏やかに生きたい。男である自分が阿部に告げる「好き」なんて、きっと誰一人幸せにすることはないのだから。
「――阿部ってさあ、ホンっト」「酷い奴ってか?」
「恋バナは水谷辺りに打ち明けてあげなよ。きっと喜んで食いつくよ」
「罰ゲームじゃねえか」
「お前の中で水谷ってどんな立ち位置な訳?」
「あー?」
「いや、いい。別に興味ないよ」
 阿部が水谷に特別冷たいのではなく、水谷の方が対する相手ごとに反応をコントロール出来ていないことが問題なのだ。裏表がないというよりは、思慮深さが足りない。阿部だって割と単純な部類だろうに、一度欠けた好感度を取り戻すことは余程大変であるようだ。「最低」だと投手として嫌悪すら覚えた相手に恋することも出来るというのに。
 阿部が榛名のことを好きだった。この好きが恋愛感情の類であることを栄口は不思議と疑わなかった。すとんと何か納得し彼の中で阿部に対して足りていなかったピースが埋まったとすら思った。過去形で語られたことを鵜呑みにして良いものかは、流石に迷った。阿部の思い込みと意地によって歪められた表現であったのならば、栄口は確実にそれを見抜かねばならない。そしてひっそりと傷付くのだ。思い出と名を持つだけで大抵の記憶は慈しまれる。辛いことも、痛みや恐怖も他人の前に晒せるならばある程度は。栄口は、そうして個人の中に根付いた想いを引っこ抜いてまで自分を植えつけようとは思えない。共存するには他人は怖い。臆病だと我ながら思う。それでも呆れるよりはこれが自分なのだと口元に浮かぶのは穏やかな微笑だった。その仕草に今度は阿部が栄口を咎める番だった。とはいえ、短気な目許がぴくりと反応し、眉端を釣り上げるだけの彼にしては大人しい抗議だ。それだけでも充分他人を威嚇できるだけの効果は持っているけれど生憎栄口には通じない。同中だからと一概に片付けていい問題なのかはわからないが、要因としては大きいだろう。栄口は漸く
開きっぱなしだった携帯を閉じて、阿部からも視線を逸らした。
 開いていた窓から風が吹き込んでカーテンをはためかせる。二人の位置からは若干遠く鬱陶しさもないのでわざわざ窓を閉めようと立ち上がったりはしない。外からは部活を行っている生徒たちの声が聞こえてくる。栄口には、西浦で自分たちが他人事のように人が動き回っている状況を眺めていられることが信じられなかった。普段ならば余所に呆れられるくらい野球漬けの日々を送っているのが自分たちなのだから。他の野球部の面子は、野球も好きだけれど休みがあるならば大人しく活発にその時間を自由に楽しもうとするだろう。阿部と栄口以外はきっと既に下校しているに違いない。栄口だって阿部がいなければとっくに帰っている。買い物なんて一人でも出来る。先に行ってるからと伝えてこの教室を出て行くことだって、きっと簡単なことなのだ。
 それでも、阿部がいるならば残っていようと腰を落ち着けたのは栄口の意思だからどうしようもない。ただ未だに解かれない阿部の眉間の皺に困った素振りを見せるだけ。それだけでは阿部の気が済まないというならば、藪蛇だとわかりきった過去をつついてあげよう。
「阿部は榛名さんのどこが好きだったの?」
 黙殺されたと思っていた言葉に突然栄口が反応するから、阿部は一瞬何を尋ねられたか理解できなかった。そしてそのまま理解したと伝えぬまま考える。榛名のどこがと問われても、はっきり具体的な箇所を挙げることは出来ないだろう。褒められて嬉しかったしポリシーが傲慢に映った。阿部の捕手としての価値を高めたのも粉々に打ち砕いたのもきっと榛名だ。球の速さは認めるし、将来の為に自分を作り上げていく努力は素晴らしいと讃えられるものなのだ。阿部は決して榛名に賛辞を贈ったりはしないけれど。いつだって阿部の中では榛名に対する嫌悪がある。憤怒があり、羨望も少しだけ。どう見積もっても負の感情が目立つというのに、阿部はあの頃の自分は榛名のことが好きだったのだと知っている。彼の中には好きだったという事実だけが残っている。再び輝くことはない、けれど消えずに思い出として確かに在る。だから阿部は落ち着かない。自分の前で涼しげな顔で呑気な問いかけをする栄口の気持ちをもしや自分は測り違えただろうかと疑わしくもなった。しかし此処で落ち込んでみせるというのも違う気がする。
「よくわかんねー」
「……………」
「でも好きだった。それは絶対なんだ」
「――そっか、なら言えばよかったのに。榛名さんに、直接」
「いやだね、嫌いだったことも事実なんだ」
「面倒くさいなあ」
 何ひとつ言葉にしないまま、阿部は榛名への想いを過去にした。栄口は思い出話を語る相手にされて、それから何かを期待されている。察するだけならば栄口は得意だ。意に添うように動けるかはまた別問題だけれど。今回は動けそうにない。自分の気持ちを言葉にもせずに相手からだけ欲しい言葉を引き出そうなんて小賢しい。
 ――俺は優しいけど、甘くはないつもりなんだ。
 机に頬杖を突きながら、栄口は阿部に課題の進捗を促した。納得行かないと不満げな表情を隠さない彼に今度こそ笑い出しそうになる。だって必要ないだろうにと思う。阿部は栄口の気持ちを期待して確信しているからこそ鎌を掛けて来たのだろう。ならば自分がその牽制を受け止めた上ではぐらかした意味をもう少し考えて頂きたい。望み通りに事が運ばなかったことばかりに目を向けていないで。
 それくらいわかるだろ、と居直るのは狡いことだろうか。栄口には何とも言えないけれど、言葉足らずはお互い様だったからきっとこれで満足だ。走り出した阿部の問題を解くペンの音を聴きながら、次にその音が止まるまで栄口は瞼を閉じて待つことにした。本当、自分以外にこうして阿部と一緒に帰るために大人しく同じ教室で待っていてくれる人間がいるのかよく考えて欲しいものだ。




20121118