グラウンドの片隅、陽はだいぶ傾いていてそろそろ部活終了の号令が掛かる頃だろう。大会前日にみっちり無茶な練習をしても仕方がないから。そして明日からついに最後の夏が始まるのだと気持ちを高揚させていた最中、準さんはフェンス越しに「おーっす利央、遊びに来てやったぞー」と締まりのない声を掛けてきた。来てやったってなんなんだろう。どうせ明日が桐青の夏の初戦だと知っての嫌がらせのつもりのくせに。勿論標的は俺一人で他の後輩たちには自分たちの果たせなかった甲子園の切符を目指して頑張れなんて無責任に演じてはエールを送っている。一年とはいえバッテリーを組んだ仲じゃないかと嘆くと「だからかもなあ」と可愛い後輩の要求をシャットアウトする悪い人、それが高瀬準太っていう男なんだ。
「まあ景気付けにラーメン奢ってやるよ。喜べ後輩」
 結局部活終わりまで練習を見学していた準さんは地元大学の一年生で、如何にも時間に余裕のある学生ですと言った格好で俺の自転車を強奪し人通りの少ない道を端から端まで蛇行しながらのんびりと漕ぎ進めている。高校最後の夏を終えた準さんは、誰もが思ってもいなかったほどあっさりと野球を辞めてさほど高くもない学力で滑り込める大学に進学しのらりくらりと第二の青春を謳歌しているらしい。主に籍を置いていないサークルに、知り合いに付き添う形を取りながら乱入し楽しければ暫くそこで活動しまた転々と放浪を繰り返しているらしい。準さんの大学には野球部はなく、野球サークルはあるものの大会に出場するような熱心さはまるでないのだとか。何でそんな大学に行ったんだと問い詰めた時、準さんは受験の時にまで野球のことなど考えていなかったとはっきりと言いきった。そしてもう桐青とは違い設備も集団もなく気儘に学生であれることに「ほっとした」と呟いた。表情もその言葉をしっかりと肯定していて、俺は何となく納得いかなかったことを覚えている。あと一年、全力で学業も放ったらかして部活動に勤しむ後輩になんて顔見せるんだと文句の一つも言ってやりたかった。だけど何も言えなかった。不満よりも、どうしても先に旅立ってしまう先輩たちの背中を送らなければならない寂しさの方が確かに勝っていたから。
 どこに向かっているのか知らされないまま準さんの背中を小走りで追い駆けていく。俺の自転車なのに、どうして俺は荷台にも乗せて貰えないのだろう。校則で二人乗りは厳禁とされているからだろうか。いやいや、単に準さんの気紛れと嫌がらせに振り回される以外の術を知らない俺の所為なのだろう。頭が悪いとか、間が悪いと運が悪いとか自分の非を探るよりも簡単なことだ。準さんが悪い。
 到着したラーメン屋は俺にはあまり馴染みのない店で、準さん曰く大学の友人たちとよく利用している店なんだとか。確かに気が付けば桐青寄りから準さんの大学付近まで連れ回されていた。そう長距離ではないけれど、明日大会を控えた後輩に対してあんまりに愛がないんじゃないかと思ってしまう。そもそも夏にラーメン屋ってどうなんだろう。途中に通り過ぎた何軒かのファミレスを思い返しては複雑だ。夏だからラーメン屋を敬遠していては全国のラーメン屋が廃業するぞと準さんは笑う。何それ、いつの間に俺たちの双肩には日本中のラーメン屋の夏の売り上げに貢献する使命が圧し掛かってしまったんだ。言い募っても、奢ってやる人間の食いたいもんを尊重するべきだと言われさっさと店内に足を踏み入れてしまった。そういうものだろうかと悩みかけたが辞めた。たぶん、準さんにとってはそういうものなのだ。
 こじんまりした店内のカウンター席を勝手に陣取って、これまた勝手に味噌ラーメンを二つ炒飯セットで注文してしまった準さんにもはや形ばかりとなった選択の自由を主張するもやはり棄却された。年功序列って日本の伝統的なシステムだけど、生まれた年が一年、数か月早かっただけで一生年下を冷遇する権利を持っているだなんてそんな馬鹿なとしか言いようがない。兄ちゃんといい準さんといい、それから少しばかし慎吾さんといい俺の周りには年下をいびることに快感を覚える人でなしが多すぎる。勿論本人たちを前には到底言えないことだが。
「おー、利央テレビ見てみろよ。榛名だぜ榛名」
「うげえ、なんで榛名の試合なんか見なきゃなんないんだよー」
「いやしかし本当にプロになるとはねえ、結局甲子園だって行ってないのにさあ。見る人は見てるもんだな」
「準さん同い年でしょ、おっさんみたいな言い方しないでよ」
「はは、高校出て大学入ったばっかしの餓鬼でもさあ色々悟ったりすることもあんだよ」
 店の上方に設置されたテレビは最近の地上波では珍しくなってしまったプロ野球の中継が放送されていて、小さい頃はよく野球放送の延長で録画していた番組が最後まで撮れていなかったという嘆きの声も今ではほぼ皆無という事態に野球少年は少しばかりの寂しさを覚える。
 今年ドラフト何位だったかは知らないが榛名はお見事プロになった。榛名のいた武蔵野第一とは大会で当たることはなく、そもそも一昨年の三年生が抜けてからはまさしく榛名のワンマンチームといった感じであまり勝ち残った印象を受けなかった。それでも最後まで嫌な奴という面識もない相手に抱くには強固過ぎた感情は払拭される切欠を得ないまま未だ俺の内側に残っていて、こうしてテレビの画面越し、小さく榛名を見つけるだけで顔を顰めてしまう。
 ――何でお前はそんなところで野球してんだよ。
 これはどんな意味のある文句なのか。今も俺の隣で榛名の速球に「速ええな」と感心している準さんにはもう野球なんて他人事で思い出でそれはつまり道端の石っころと何ら代わりないものなのだ。去年の夏、準さんがエースとしてマウンドに立った最後の夏。榛名と勝負したかったと、今更ながら唐突に願った。俺と準さんのバッテリーで榛名に勝っていたのなら。準さんがプロのスカウトの目に留まったとは思わないけれど、こんな一介のどこにでもいる平凡な大学生に堕ちたこの人を見ることはなかったのではないのかなんてとんでもない責任転嫁を思いついてしまった。今の準さんが悪いとは言わない。だけど確かに物足りない。それは俺がまだ高校生で、準さんは大学生だからというたった一年の差に阻まれてしまった齟齬がそう思わせるのかもしれないけれど。だけど俺は俺が今位置する場所以外から物を考えるということは出来ないから。
「おい利央」
「何すか、俺今結構真剣に考えことしてるんですけど」
「明日の夏の初戦さあ」
「負けちまえとか言ったら泣いちゃうからね!」
「泣いちゃうってなんだ気持ち悪いな。そうじゃなくて、俺用事あって応援行けねえからさ。タケとかカズさんは行くっぽいけど。だからこうして前日に激励しに来てやってんのに何だお前俺を人でなしみたいに」
「人でなしじゃん!」
「おま…、奢らねえぞ」
 人でなしの言葉に心外だと言いたげな準さんに俺はそれこそ心外だと言いたい。こんな可愛い後輩を苛めて偶に真面目な話ししたって直ぐに応じられる訳がないじゃないか。ギャップ萌とかないし。そもそも準さんが萌の対象とか俺そんなに枯れてないし。だけど良いことを聞いた。明日は先輩たちが応援に来てくれる。ならば精一杯頑張って俺の一年間の成長をお披露目しなくてはならないな。後輩たちにも、情けない姿は見せられないし。しかし準さんにとっての先輩たちも来るというのに予定が入っているとは準さんも忙しいのだろうか。
「準さん用事って?テストとか?」
「いや、ダチのサークルでバケツプリンを作るっていうからさ、混ざってくる」
「準さんの人でなし!!」
 最低だよこの人は!そう声を上げるよりも先に、いつの間にか運ばれてきていたラーメンはどちらも少し伸び始めている。テレビの中では、榛名が三振を奪っていた。



20120809