ぱくぱくと金魚のように口を動かす。唇が象った文字が好きの二文字であったことを誰も知らない。一度たりとも音に乗らない言葉、視線の先にいる阿部君。夏のプールに潜って見上げる空は太陽光に煌めいて揺れる。そのまま沈んで光も差さない暗闇まで落ちれば何もかもを遮っていられるかしら。そんなことを考える。だけど無意味だ。プールの底は年々浅く足に触れるのだから。



 グラウンドに水を撒くのは篠岡の仕事。彼女は比較的この作業を楽しんで行う。どこが楽しいのと尋ねられれば万人を納得させる明瞭な回答は用意できないけれど恐らく定まった範囲内、ホースから放物線を描く水を操って地面の色を隙間なく塗り潰す所だろうか。あくまでも、自分のことながらに推測の域を出ないこと。重量の違いは感じても篠岡はマネージャーの仕事に苦痛を感じたことはなかったから、結局全てが楽しいのかもしれなかった。昼休みをひとりグラウンドの草むしりに費やすことも同様だ。人によっては理解に苦しむこと。友だちにだって何が楽しいのかと呆れられることもある。そんなとき、やはり篠岡ははっきりと具体的な言葉を以て説明することは出来ない。高校野球が好きだからという理由だけでは何故か周囲の人間は納得してくれないのだ。
 物事の渦中にいる篠岡には、自分が楽しいと感じていることが周囲に綿密に言葉を手繰らなければ伝わらないことがもどかしくもありまた諦めにも似た妥協を良しとするくだらないことのようにも思えた。自分だけが知っていれば良いこと。そう割りきってしまえば、他人の意見など雑音のように流れていく。そして段々と雑音すらも消え去り無音の中篠岡はひとり黙々とマネジの仕事に精を出すのだ。誰に悟られることもなく、ひっそりと阿部を慕い続けてきたように。
 露骨に視線を投げて固定させたことなどない。だがそれは結局恋する乙女の自惚れを多分に含んだ信頼ならない自己申告。篠岡はどうやら自分に向けられる視線というものに対して無頓着が過ぎたのだ。部の空気を濁さない為にと理由を付けて飲み込んだ言葉、逸らした視線、陣取れなかった隣。全部が全部振られることが怖いという思いやりでも夢への情熱でもない自己愛からだったと気付いた時、篠岡は顔から火が出るかと思うくらい羞恥に染まり穴を掘ってでも埋まってしまいたかった。
 そんな、篠岡にとっては直視し難い現実を無神経に引きずり出したのは水谷からの告白だった。予想外も甚だしい彼からの好意に篠岡は茫然と立ち尽くし微かに開いた口は塞がらない。グラウンドに水を撒きながら「ちょっと良い?」と持ちかけられたら会話を受けてしまったのが運の尽き。ホースの先から流れ出るままの水が篠岡の足下に不自然な水溜まりを作る。早く水を止めたいのに体が全く動かなかった。冗談でしょうと茶化してしまいたい。真っ先に浮かんだ予想は見つめた水谷の瞳に即刻打ち消され即座に願望へと方向転換。だけどもきっとそれも叶うまい。水谷の篠岡へ抱く恋心が報われないのと同じように。

「……どうしてそんなこと言うの」

 漸く絞り出した一言がこんな残酷な言葉だったから、篠岡はどんどん自己嫌悪。しかしその嫌悪感に弁解を差し向けるのもまた自分なのだ。
 だって。
 だって私は我慢したの。最低でも高校野球に携わる三年間、向ける視線に宿る熱、好きと象る唇から漏れる音全て無色透明にして置くこと。水中に閉じ込められたかのように恋愛という一点に於いてのみ不自由であろうと決めた。マネージャーとして身軽に動く為、部内の和を乱さぬ為、阿部の野球人生に余計な横槍を入れない為。傷付きたくない保身の情が大半を占めていたとしても篠岡が部員の皆に抱く親しみ全てが嘘になる訳じゃない。皆の目標と努力の邪魔はしない。篠岡だって、目指す場所は彼等と一緒なのだ。
 だからこそ、篠岡の努力を水泡にするかのような水谷の告白は彼女には恋愛というよりも怪現象に近かった。許し難いと憎むには、篠岡にとって水谷は親愛なる仲間でありすぎた。

「ねえ水谷君、何で?」

 もう一度、尋ねた。今度は凛と震えることなく。
 ――お願いだから、今なら私も笑って流せるから冗談だと言ってよ。
 声色とは裏腹に、縋り付く本音は願望となって篠岡の瞳にありありとその影を落としていたことだろう。水谷はいつものようにへらりと笑った。だけども彼の笑みにもどこか縋るような、普段とは類の違う頼りない部分が伺えた。それが出来てしまうのは、篠岡の立ち位置が実際水谷と似通っているからなのか。
 水谷は篠岡を好きだと言った。篠岡は阿部を好きだと思う。阿部は野球を愛している。きっと言葉としては大仰なのだ。だけどもそう思わねば耐え切れぬこともある。一方的な恋慕と勝手な忍耐は誰にも打ち明けられない代わりに脅かされもしなかった。ある日突然野球が女の子に変身したりしなければ。有り得ないから、笑っていられる。

「水谷君、私――」
「うん」
(私――そういうの苦しいの)

 聞こえなかったかもしれない。だけどそれでも構わない。水谷はきっと篠岡が阿部を異性として好いていることを知っているのだろうから。だけどそれでも告白したということは振られることだって予期できたはず。お互いが不用意な傷を負うしか末路の存在しない行動は不可解だ。好きだという言葉を疑わないのならば、篠岡を傷付ける意図はなかったのだろう。下手な鈍器や刃物よりよっぽど痛い武器だったと彼女は嘆くけれど。
 水谷にも篠岡のような勝手な制約があって、解けるまで預かって欲しいというのならばお断りだし、実らないと知りながら抱え続ける好意が重いから投げたというのならば勝手に道端にでも捨ててくれ。巻き込まないでとはあまりに酷い。優しく手折れとは図々しいと思う。だから篠岡は自分に答えを求めるよりも先に水谷からの解答が欲しかった。
 ――どうしてそんなこと言うの。
 たったひとつ、その答えを。

「だって篠岡のこと好きだから」
「―――」
「きっかけとか話してもたぶん篠岡にはわかんないし覚えてないと思う。でも俺は篠岡のことが好きで…好きになってから色々考えてさ、見たり聞いたりして…それでまあ何となく篠岡は阿部のこと好きなんだろうなとは思ったよ。それでも好きだから、言いたかったんだ」
「そんな…そんな勝手な」
「うん、ごめんね」
「私が阿部君のこと好きだとかそんなの…そんな…そんな簡単に…」

 言葉にしないでよと声を上げるよりも先に篠岡の瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちた。怒りとか悲しみとか混乱とか、様々な感情が混じり合って極まったのだろう。
 告白をしてその想いを絶たれようとしている水谷よりも、告白された篠岡の方が涙し悲しみに暮れ傷付くだなんて可笑しな話だった。しかしこの場に可笑しいねと笑い合える空気などこれっぽっちも漂っては来ない。きっとどちらかがこの場を去って話題を打ち切るまでは。だが篠岡には此処を去る選択肢はない。彼女はまだマネージャーの仕事の水撒きをこなしている最中なのだ。だから早く何処かへ行ってとは言わない。しかし願った。

「ごめんね」
「………?」
「好きになってごめんね」
「だったら…!」
「でも好きだから、俺きっと同じことまた篠岡に言うと思うんだ」
「……水谷君、」
「だからごめん」

 言い終わると、水谷は野球帽を目深く被り直し駆け足でその場を去って行った。残されたのは篠岡ひとり。結局止めるタイミングを逃し続けた水はホースから溢れ地面を浸し篠岡の膝下をもずぶ濡れにしていた。だが今の篠岡は足下よりも心の方がずっとずぶ濡れで暗く沈んでいる。受けてこんなに胸が痛む告白があることを篠岡は今初めて知った。そして仮に自分が阿部に一生分の勇気を動員して告白した時もこうなるのだろうと予感し悲しくなる。阿部のことだから、篠岡が感じた胸の痛みも迷惑だとか嫌悪に変換してしまうかもしれない。やはり篠岡にはそれが何よりも恐ろしい。だからこそ口を噤み息を潜めて生きていく。暗い深海の底では寂しすぎるから、学校のプール程度の浅瀬、太陽を水中から見上げその眩しさと塩素水に瞳を痛めて赤くする。手を伸ばしたり、泣いたりはしない。まして声を上げるなどと。
 ――ごめん。
 先程の水谷の謝罪が耳の内側で何度もこだまする。あれはきっと想いを断てないことへの宣誓で、好きだと良いながら篠岡に優しい気持ちの転換を選ばないことへの心の籠もらない謝罪だった。だって水谷は篠岡を想うことに罪悪感など覚える必要はないのだから。

「…ごめんね」

 篠岡も言葉にしてみる。応えてやれない水谷に対してか、好いてしまった阿部に対してかはきっと問題ではない。篠岡もまた阿部を想うことに罪悪感など覚えてはいないのだ。しかし伝えたいと願うことは途端に罪深い。篠岡は隠したい。少なくとも最後の夏を駆け抜けるまでは。
 水谷は好きになっことを隠さず、拒まれてもまだ好きだと言う。いつか自分もマネージャーという勝手に命名した枷という場所を離れた時、阿部に想いを打ち明けるのだろうか。散るだけの恋から動き出せるとは微塵も思えないが。届かないから言わないのか。言わないから届かないのか。篠岡はその解をあと二年先でしか受け取らない。

 ――ス、キ。

 唇で無音の恋を語る。相手は誰にもわからない。分かっても届かないのだから構わない。
 篠岡は漸くグラウンドへの水撒きを再開する。足下の水溜まりに目を落としながら、篠岡はひどく喉が渇いたと思った。もう、声が出ない。






20120731