小学生の頃、瑠里はクラス替えの際にいつも叶と別のクラスになれますようにと祈っていた。家が向かいというだけで仲の良い幼なじみになりきれるほど、二人はお互いを意識しなかった。瑠里に弟がいた所為もあるだろう。男同士、ガキ大将気質な叶は自分に懐く年下の琉を子分感覚に連れ回すことを楽しんでいた。その分、叶の言いなりにならない瑠里との折り合いは悪く、蛙だの飛蝗だのくっつき虫だのを投げつけられたりした恐怖と恨みは根強く残り二人の間に溝を作った。
 そんな嫌悪が先立つ時に限ってクラスは一緒だし席替えではやたらと近くになるし仲の良い女友だちは叶君って格好良いよねなどと言い出すしで散々な毎日を送った。消しゴムのカスの応酬からノートの角を如何に奴の頭に命中させるかで授業をふいにしたりもした。男子のリーダー的存在である叶と張り合う瑠里は彼の周囲の男子に恐れられたり、やっかまれたり、兎に角誰一人彼女に大人しいなんて印象を持てない程度に二人は毎日のようにいがみ合っていた。
 そんな二人が、お互いの仲の悪さを無視して行動を共にする時がある。運動会でも合唱コンクールでもなく、瑠里の家に廉が遊びに来た時だ。元来自分から周囲にアプローチを欠けるのが下手でいらん遠慮をする廉は折角親戚の家に遊びに来ても両親の背後に縮こまっているだけ。同い年の従兄弟がいるのだから遊んでおいでと促されても、瑠里が腕を引っ張って連れ出してやらなければちらちらと視線を向けて様子を窺ってくるのみ。瑠里は純粋に年齢の近さだけで廉という存在が気安くて好きだったから、当初彼の怯えたような態度には手を焼いたし腹も立った。それでも何度目かには慣れて、力尽くで両親から引き離し近所の公園に連れ出したのだ。そしてそこに叶がいたことが、瑠里には最大の誤算だった。せめてあの時琉も一緒に連れて行っていたら、その後廉が群馬に遊びに来る度に叶に奪われるようなことはなかったかもしれないのに。
 友人とキャッチボールをしていた叶は目敏く瑠里を見つけ、その隣に見知らぬ子どもがいることを見逃さなかった。近付いてきて、誰だと聞かれて関係ないと言い募れば途端に険悪になった雰囲気に廉が緩い涙腺を崩壊させたあの時から、叶と瑠里は廉の前では喧嘩はしないと誓ったのだ。


 中学に入って男女別れて日々を過ごすようになってから、瑠里の中にあった叶への嫌悪は少しずつ形を潜め思い出に変わっていく。ガキ大将をガキ大将と字面通りの子ども扱いが出来るようになり、登下校の時間帯も部活の違いから一切被らない日々を繰り返す内に叶自体が思い出に変わってしまいそうな程に関わりを持たなかった。
 それでも居候となった廉の口から、入学して暫くは頻繁に叶の名前を聞いていたので忘れたりはしなかった。何ヶ月か、何年か。野球部の詳しい内情が女子棟まで話題に登ることはないけれど。時折三星の野球部は弱いと話している女子もいたりして。洗濯物で見たことのあるユニフォームと、その背についた番号を思い出し瑠里は何とも言えない歯痒い気持ちになる。減ってしまった叶の話題を不思議に思ってこちらから話を振った時の廉の肩の揺れも。申し訳なさげに水膜を張る大きな瞳も。幼少よりずっと下を向いてしまうその顔も。全ての理由を、瑠里は一度として問い質さなかった。もしかするならば、一度でも廉を問い質していたのならば。叶を問い詰めたのならば。責めるなり庇うなり正すなり何らかの行動を起こしていたのならば。廉は今でも群馬で野球をしていただろうかと、瑠里はそんなもしもを想像する。先日埼玉まで出向いて目にしたマウンド上の廉は、そんな瑠里の想像よりもずっと素晴らしい現実を歩んでいるのだと、彼女にまざまざと見せつけた。ならば自分もこれ以上不毛な想像を積み重ねることはすまい。そう決意した矢先、部活を終え、友人と一緒の帰路を別れて一人となった途端、叶と遭遇してしまったのだから運がない。
 二人きりになるのは随分と久し振りのはずだが、瑠里は琉から叶のことでメールを貰ったばかりだったし、それ以来弟は野球の話となると叶を持ち出してくるから瑠里としてはあまり久し振りといった印象を持たない。だが叶は随分と長い時間を挟んだと感じているらしく、出会い頭に挨拶を交わした以降黙り込んでしまっている。話しかけようにも浮かんでくる話題が野球部のことばかりで、女子である瑠里が野球部男子の名前など知っている筈もないだろうから、話が弾むとも思えない。そんな、柄にもない緊張で表情が堅くなっている叶を気遣う訳ではないが、この際だからと瑠里は内に溜め込んでいた気持ちを叶相手に吐き出すことにした。

「この間レンレンの試合観に行ってきたんだ」
「ああ、琉が俺らの試合観に来た日?」
「うん、電車に乗って。駅からはバス。帰りはおばさんに送って貰ったけどお小遣い結構消えた」
「金持ちが何言ってんだ」
「私の懐には何の恩恵もないよ。それにレンレンの試合ならーー」
「……なら?」
「ねえ、どうしてレンレンの試合、埼玉まで行かなきゃ観れないのよ」

 言い掛けて、淀んで飲み込もうとしたけれど結局は言い放った。予想通り、叶は言葉を詰まらせてしまう。本当は、ゴールデンウイークに試合をしたと聞いた時から廉は三星に見切りをつけたのだとは察していた。此方にいた頃の彼はいつでも息苦しそうにしていたから。実際に試合を見て、今埼玉にいる方がよっぽど彼に合っているとも知っている。それでもやはり叶にだけは無言を決め込むことが出来ない。小さい頃、中学の入学式、いつだって野球の二文字で自分から廉を取り上げて来た彼が、どうして廉をあっさり埼玉に帰してしまうのか納得が出来なくて。それが、自分が部外者である何よりの証拠だとしても瑠里は黙らない。

「叶が一緒に三星行こうって言っても、レンレンはきっと帰っちゃってたとは思うけど」
「…ああ」
「この間の試合見てたら、寧ろそれが正解だったとは思うよ」
「………」
「でもレンレンの話する度に叶がそんな風に黙り込んでたら疑いたくなるじゃん!」
「はあ?」
「私レンレンが叶以外の人と野球してるとこ観たことなかったし、思い出だから美化されてるかもだけど凄く楽しそうにしてたのに何でそんなよそよそしくしてんのって思っちゃうってこと!」
「―――!」

 廉と叶の仲が悪いとは思っていない。初戦突破後、お互いメールを送りあったことも知っているし廉が叶を昔の呼び名で呼ぶようになったことも知っている。それなのに、叶は瑠里が廉の話題を出したら黙り込んだのだから気に食わない。まるで廉のことで負い目があるかのようで。瑠里には知らないことが沢山あると言われているようで。たとえそれが事実だとしても叶にだけは諭されたくない。瑠里にとって叶はガキ大将としての印象が薄れても決して尊敬を向けるような高尚な存在ではないのだから。
 別に叶を咎めたつもりもない。ただ単純に、瑠里の中で叶と一緒に野球部に入るからと見送った廉が、いきなり埼玉で投球を始めてしまったかのように彼の野球を観ることは出来なかったから、廉と叶の中学時代の野球はどこに行ってしまったのと思っただけのこと。

「三橋、」
「どっち?レンレン?」
「は?いやお前だよ、三橋瑠里の方。廉のことはまた廉って呼んでるし…ってそうじゃなくて三橋!」
「何よ?」
「俺ら来年甲子園行くから応援来いよ」
「どっから来んのその自信」
「廉も絶対甲子園行くから、そしたらそこでもう一回俺たちが一緒に野球してるとこ見してやるよ」
「………」

 心底自信に満ちた表情で宣言した叶に瑠里は返す言葉を迷う。無理だとは思っていない。今年の成績もなかなかだったと聞いている。だが仮に三星が甲子園に出場して更に西浦も同じ舞台に立てたとする。その上でこの二校が対戦する一年後など有り得るだろうか。
 疑わしくとも、目の前の野球馬鹿はそこを目指しているし、今この場にいない廉も同じなのだろう。こんな時ばかりは男の子同士の繋がりが羨ましく思える。だが自分には観客という役割が与えられているらしい。ならば自分も信じてみようか。廉と叶が、属するチームは違えどもまた一緒に野球をする日を。その舞台が日本中の高校球児が夢見る甲子園。応援する場所は一塁側にも三塁側にも付けないから、外野席か。
 ――ああそれよりも、投手二人の顔が見えるネット裏のが良いか。
 きっと楽しい光景になるだろう。少しだけ、今から来年の夏が楽しみになる。隣を歩く叶に本心とは裏腹に期待はしないでおくと返せば可愛くないと顔を顰められた。お生憎様、叶に可愛いと思われなくとも大いに結構だ。この辺りは、昔の捻くれた関係が継続している。それでも、あの頃とは違い叶のことは決して嫌いではないと言いきれる。
 だから、来年の夏と言わずに野球部の大会があれば応援に駆けつけてあげよう。尤も叶しか知ってる人間がいないので野球部というより叶の応援になるのかもしれないが。

「だからさっさとエースになって先発固定されてよね」
「だからって?」
「知らない人の応援だけして試合終了とかつまらないでしょ」
「ああそっか、よし任せろ」

 一年の分際でなんて誰も突っ込まない。二人きりの帰り道、喧嘩にも発展しない会話は時間を進ませて気付けばもうお互い自宅の前まで辿り着いていた。じゃあねと別れて自宅の門扉を潜る。着替えの為にリビングに寄らず自室に向かった瑠里は何度も叶との会話を再生する。来年叶の背中にある数字が、廉と同じであれば良いのに。
 瑠里の中で楽しみだと思うもの。その一位が今日の夕飯の献立に脅かされるまで、瑠里はずっと叶のことを考えていたのだけれど、それがどんな意味を持つかなんてことは来年の夏までは誰も知らない。



20120625