夏休み中の廊下はどこもひっそりとして、日差しが届かない場所ともなれば半袖から晒されている腕は肌寒さを感じるほどだった。ダンス部の人数と部室の狭さに耐えかねて、夏休みの間だけ校舎内の理科室を更衣室として使用してもいいという特例を学校側から勝ち取ったまではよかった。夏場に窓を開けることもできない部屋で大人数で着替えるなんて想像しただけで暑苦しい。混ざり合った制汗剤の香りが生温い空気の中で不快感を煽る場所に、上級生として優先的に居座れる権利なんて越智には全く有難味のないものなのだから。何せモデルとして服を脱ぐ度に肌の手入れ方だの下着の柄が可愛いだの話し掛けられるものだから、越智のイライラは不快の一言では到底表せないほどだ。
 広々とした部屋で着替えられる快適さに比べたら、理科室の鍵を職員室まで返しに行く当番くらいどうということもない。冷房の利いた職員室から一歩も出て来ない顧問に部活終了の報告をしてから、理科室と書かれた箇所のフックに鍵を掛けて越智の仕事は達成される。登校している教師の人数と職員室の面積を考えればこの冷房の温度は無駄な程冷え込みを利かせているとしか思えず、直前まで部活で身体を動かして、廊下の影に涼しさを覚えていた越智には寒々し過ぎる。
 おざなりな挨拶と同時に職員室を出ると、丁度これから入室しようとしていた誰かとかち合った。一体誰だと視線を上げる。つい挑みがちな視線になっているのは、自分の道をすっかり塞がれてしまったと感じているから。相手に悪意などないだろうに、それを察するには越智は自分の所感を優先する。他人よりも優れた容姿と囃されることに慣れている彼女ならではの自尊心の現れ。それを疎まれないのは、その自尊心を放り出して懐いている友情をしばしば目撃されているからであろうか。万人に対して高圧的ではないという有り触れた女の子特有の差別意識しか持っていないからかもしれない。

「――あ」

 越智の瞳が目の前に立つ人物の顔を捕えるよりも先に、相手が彼女の顔を確認し声を上げる。一体誰だという思いと知り合いかという予感が混ざり合い、漸く自分よりも高い位置にあった顔を見つめるものの逆光の所為で咄嗟には判別がつかない。その所為で、目を細めた結果睨むような視線を送ってしまったことは仕方あるまい。たとえ相手が怯むように一歩足を引いたとしても。
 そしてそこに立っていたのが、去年までの同級生でクラスメイトでもあった浜田良郎とわかった瞬間、更に目つきが鋭利に澄まされたことが自覚的であったとしても、仕方ない。何故なら越智は、彼女が理解し得る範囲に於いて、自分は彼が嫌いであると意識しているのだから。
 後ろ手に職員室の扉を閉めるという、これから入室するであろう浜田への嫌がらせは彼女の中では彼に気遣う理由がないの一言で説明が付く。では何が気に入らないのかと言うと一言で説明するのは難しい。
 留年という、学生としては不名誉と不真面目の象徴を引っ提げて後ろめたさも恥じ入る様子も見せないところも気に入らないといえば気に入らない。越智の険阻な雰囲気は廊下の静寂を伝って浜田をちくちく攻撃する。偶然鉢合わせた彼女に、こうも敵視に近い視線を貰うとはどうしたことかと戸惑うしかない。

「……応援団やってるんだって?」
「え?」
「うちの後輩まで巻き込んでくれてるみたいじゃない」
「あ――越智ってダンス部だったっけ」
「ふん、今初めて察したって感じでしょ、どうせ」
「ええっと…?」

 さっさと脇をすり抜けて去ってしまうかと思った。しかし浜田に対して言葉を投げたのは越智からで、その内容に彼は少なからず驚いていた。彼女とは同じクラスだった頃も特別仲が良かったわけではない。浜田の性格上不和だったということもないのだが、積極的に関わって行った記憶はないし、相手も彼に対しては同様の認識しか持っていないだろうと思っていたから。
 野球に興味など到底あるはずもなく、だから浜田が今年になって突然応援団なんてものを立ち上げたことが元同級生たちの間で話題になったことは知っていても彼女の耳にまでそれが及んでいるとは思わなかった。しかし越智の言葉で直ぐに合点が行き、成程あのチアガール二人が所属しているダンス部に越智も所属していたのだなと確かに彼女の指摘通り初めて理解した。しかしその今更なことを越智が予想以上に苦々しく感じていることにまでは気付かない。

「あんた、そんなことしてて良いわけ?」
「へ」
「留年してるのよ?真面目に勉強しなさいよ」
「あはは、そう言われると返す言葉がないんだけどさ…」
「如何にも青春を謳歌してますって感じ、ムカつくのよ」
「越智?」
「気安く呼ばないでくれる?私、アンタのこと結構嫌いよ」
「はっきり言っちゃうんだ」
「別に構わないでしょ?もう同級生じゃないから、滅多に顔も合わせないもの」
「拘るねえ」

 越智の主張は概ね正論の域に収まっているのだろう。何故彼女がそれを言うのかという点を覗けば、どこまでも真面目な人間の意見としてまかり通る。しかしその非難じみた叱責を一身に浴びて項垂れるしかない浜田が不真面目な人間かといえば、現在に限りそんなことはなかった。
 そんな、へらへらと越智の言葉を真に受けているようで全く心に響かせていない態度が気に食わないのだと、浜田を殴ってでもわからせてやりたいような衝動。しかしそれに従うには、越智の自尊心は彼女を乱すことを許さなかった。不真面目な態度で学生の本分を疎かにした浜田が嫌い、クラスメイトからも同級生という枠からも離脱してしまった浜田が嫌い、自分を意識しない浜田が嫌い、自分がいない場所で充実した時間を過ごす浜田が嫌い、好きな所なんて一つもない。だけど、そうやって欠点ばかりあげつらっても結局は彼を無視できないで一方的に突っかかるしかできない自分が一番情けなくて大嫌いだった。

「アンタみたいな馬鹿、大嫌い」

 トドメのつもりで吐き出した言葉。それを実際傷として受けたのは、きっと浜田ではなかった。震えてしまった言葉尻は、その言葉自体の鋭さに戸惑ったからだと思いたい。間違っても、泣きそうになってしまったからだなんて越智は認めない。困ったように浜田は頭を掻いて、どうせ面倒くさい奴に出くわしてしまったくらいにしか思っていないのだろう。それが、越智を惨めにさせるのではなく怒らせている間は大丈夫だった。無関心に絶望しないでいるのなら、越智はまだ精一杯歯を食いしばって涙を堪えることができるから。そんな気位は、彼女を救いはしないのだけれど、それでも今は浜田に涙を見せないことが第一のように思えた。

「――じゃあね、」
「え、ああ、うん」

 言いたいこと全てを吐き出しても、浜田は何も主張しない。わかりきっているから、越智はさっさと彼の脇を通り抜ける。直ぐに背後で職員室の扉を開ける音がしないでいることが、越智の歩調を早める。見送られているのだろうか、確認する勇気はない。今ここで振り向いて、浜田と目が合うか合わないかを確かめること、そうするのに必要な勇気はどれくらいだろうかと考える。少なくとも、去年まではアンタの笑った顔は嫌いじゃなかったと打ち明けるのに比べたら随分と簡単なことなのだろう。





20130312