免許を取ってさえしまえば何処へ出掛けるにも車移動が基本になり、電車には滅多に乗らなくなってしまったのだけれど、久しぶりに実家に帰る際に駐車場はないから電車で帰って来いと事前に親から言われてしまえば従うしかなかった。
 篠岡が電車を降りて、まだ真夏と呼ぶには早い初夏の日差しに、それでも汗を浮かべながら駅を出ようとした矢先に彼女の目に飛び込んで来たのは、夏の甲子園の切符を懸けた対戦表だった。駅の壁一面に貼り出されたそれは、数度遠巻きに抽選会で見たものよりも大きい。昔はよく見上げにやって来たものだった。もうそんな時期なのかと驚きながら、数年前までは対戦が決まるや否や翌日の新聞で地元スポーツ欄を開いては熱心にその表を書き写していたものだと懐かしさが胸を襲う。高校に進学したら絶対に野球部のマネージャーになるのだと誓わせるほどの熱烈さだった。実際に受験期を迎え進学先を決める際は、当時抱えていた初心な恋の影響を排除することはできないまま進んでしまったけれど、だが自分の進んだ道は間違っていなかったといつまでも誇っていられるような日々を篠岡は西浦で過ごした。
 対戦表の一番端から視線を滑らせて、母校の名前を探す。まさかいつの間にかまた軟式に戻っていたりはしないだろう。とはいえ、高校を卒業してからというもの、嘗ては毎日朝から晩まで飽きるほど顔を合わせていた仲間とも疎遠になってしまっているのだから時間は実直で薄情だ。小まめな連絡を怠った結果がどこまでも冷徹に広がっているだけ。悪者を探しても仕方がないが篠岡を含め全員が選んだ道の結果。よほど日々が充実しているか、それぞれ別の道に進んだ以上は過去の人間関係にばかり時間を割いてはいられないのは当然のこと。
 そんな現在への言い訳を連ねながら、篠岡は対戦表に沿ってゆっくりと足を進める。西浦の二文字はまだ見つからない。そしてふと、進行方向に自分と同じようにこの表を見ている人物がいることに気が付いた。背筋は真っ直ぐ伸びているが、凝視しているといってもいいほど熱心に、一応歩行者である篠岡の接近に気付くこともなく彼女の進行ルートを塞いでしまっている。勿論、そんなことに腹を立てる篠岡ではないものの、その横顔に見覚えがある気がして、失礼と知りながら相手が此方に気付かないのをいいことに不躾に観察させて貰う。そしてものの数秒、相手の正体を見抜き、躊躇いなく、呼んだ。

「三橋君!」

 偶然の再会に、興奮で若干上擦った呼び声は相手の肩を驚きで震わせた。けれどそれは、昔相方や監督の怒声に肩を震わせて縮こまっていた頼りなさとは程遠い小さな揺れだった。それから、視線だけが篠岡に向けられる。三橋の方は直ぐに相手が篠岡だとわかったようで、それからやっと身体ごと彼女の方に向き直った。

「…篠岡さん?」
「うん!凄い偶然、久しぶりだね!」
「そうだね…。帰省?」
「そうそう、まだ大学は終わってないんだけど家の用事があって――三橋君は?」
「俺は地元出てないから」
「そっか、そうだったね」

 出会ったばかりの頃は考えられないほどスムーズに交わされる会話にももう驚きはなくて。篠岡はいつからこんな普通に慣れてしまったのかという感慨すら抱けない。高校入学以降殆ど伸びなかった篠岡の身長と、それなりに成長した三橋の視線は意識して動かさなければ巡り会わない。篠岡と三橋の時間は高校三年間しか重なり合わず、そのどこかでお互い大人になる為の一歩を踏み出していたはずだった。当たり前のように卒業式という区切りが訪れるまで、つまりは最後まで二人は野球部のマネージャーとエースの称号を抱いたままでいた。そこには何の未練も後悔もない。

「もう県予選が始まるんだね」
「うん、今年はどこが行くかな」
「シードとか、私たちの頃とは微妙に変わってるもんね」
「篠岡さんは…もう高校野球は追い駆けて…ない?」
「うーん、甲子園はテレビで見るけど予選までは手が回らなくなっちゃった。予選の時期に入り浸ってると、その後の大学のテスト期間しんどくって…」
「ああ、確かに、そうかも」

 苦笑して見せる篠岡の現状に、三橋が感じたものは違和感でも落胆でもなく、過去は過去としてどこまでも遠いなあという虚無感だった。それに対する責任は誰が負うべきというものではなく、まさか高校野球の面影を見つめている最中に当時の仲間に遭遇するなんて出来過ぎた偶然がいけないのかもしれない。目の前にいる彼女は、高校生の頃より化粧や服装の所為で雰囲気を異にしているとはいえ劇的な変化を遂げているわけではない。それでもあの頃より随分小柄に映り、頼りなく見えるのは何故だろう。
 マネージャーとして非常に優秀だった篠岡を、三橋は好いていた。けれどその念に恋と名付けてはやれなかった。他者の嫌悪に敏感だった当時、自分の気持ちを相手に届かせるほど顕現させることは三橋にとってとんでもない重労働だった。野球に関することならばその頃全てを傾けていた情熱が手伝って口を開かせることができたけれど。自己分析も遅達過ぎて、三橋は篠岡に怯む気持ちを払拭することができなかった。
 あの頃、三橋はどうしてか篠岡の今にも泣きだしそうな顔が苦手だった。それは多分、相方と朝食を作ることになった初日に見た光景がきっかけになっているのだろう。三橋の相方だった彼の言動は、三橋にとっては絶対だった時期もありそういう人間だと理解すればそれだけのことで仲間たちは憚りなく酷評しながらも嫌ってはいなかった。男同士の応酬は寛容で、そこにひとり存在していた同年代の女の子の扱いを自分たちが心得ていたかというと非常に怪しい。
 篠岡が自分の相方を好いていたことに三橋が気が付いたのはそのきっかけの朝を随分過ぎてからのことだった。応援してやる必要はなく、どうしようもなかった。あの時野球部にいた誰もが野球しか求めていなかったから、恋愛なんて三橋には二の次だった。もしかしたら、二よりもずっとずっと後ろだったかもしれない。兎に角、他人同士を結び付けるような立派な働きは当時の自分には難しかった。それはきっと今でも変わっていないと思う。恋愛相談なんて受けたことがないから、周囲もそう思っているに違いない。

「篠岡さんは――」
「ん?」
「阿部君のこと、好きだった?」

 尋ねるつもりじゃなかったけれど、対戦表を見ながら対戦したことのある学校を指差しては当時の思い出を語り出す篠岡につられて懐かしさが滲み出たのかもしれない。失言だったと後悔することもなく、三橋の視界に映る現在の篠岡に十六歳の彼女が重なって見えた。

「好きだったよ」

 なんてことない、昔のこと。微笑みながら、篠岡が言う。そうかと三橋が頷く。あの頃、誰にも暴かれることなく終わった恋。わかっていた結果を、避けることなく受け入れた。それも他愛ない全力で駆け抜けた日々の残照となり少しだけ大人になった二人の顔に差している。
 そして三橋は、照りつける現実の日差しと思い出の残照を受ける瞼の裏側で駆け抜けるマネージャーの後姿を見送った。



20130314