※剣葵

「天馬となら、どんな真っ暗な世界に閉じ込められたってほんの小さな光を見落とさないでそこに向かって一緒に進んでいけるんだろうな」

 そう俺の隣で微笑んでいた葵が、俺ではなく剣城の手を取って歩いて行くことを決めたのはいつのことなのか、俺は正確には把握していない。幼馴染と恋人との距離感の違いがいまいち理解出来ていない俺が知っている確かなことと言えば葵は俺と一緒にいると楽しいと言ってくれるけれど、剣城と一緒にいると幸せだと言うところだろか。いつだって隣にいたわけではないけれどいつまでも一番近くにいられるのだとばかり思っていた。進路調査表にだって記載できない大雑把な未来妄想は俺と葵をいつまでだって繋いでいた。ただ俺と葵が恋人だとか結婚だとかそんな関係の変化をしていたかと聞かれれば妄想でだってそんなことはしなかった。だって、変わらずにいられると信じ込んでいたのだから。

「天馬、私赤ちゃん出来たの」

 ある日葵が俺に告げた言葉。少し首を傾けていた所為で彼女の肩口に触れている髪先がふわりと風に揺れる。太陽の光を受けて輝くのではなく透かしてしまうその柔らかさに、俺は若干の眩暈を覚えた。いつしか少女から女性へと着実に変わって行く葵を前に俺は自分自身を顧みる。大学生になっても未だ俺の腕に抱えられたサッカーボール。葵がその手を取った、そして葵の腹の中の子の父親である筈の剣城だって、まだ俺と同じフィールドでボールを蹴り続けているというのにこの差はなんだろう。
 葵は母親になるのだという。それは大人になるということだろうか。よくわからない。俺は父親にはまだなる予定もないし、大人でもないのだと思う。
 ――ねえどうして。どうして葵はひとりでさっさと歩いて行ってしまうの。
 内側から湧き上がる叫びは外へと漏れ出ることはない。まだ妊娠して間もない葵の腹はこれっぽっちも膨らんでいなくて、言われなければ誰も分からないだろう。その葵の腹部にそっと手を当ててみる。彼女はちっとも抵抗しないしまだ何も反応なんてしないわよなんて今から母親みたいに俺を諭すのだ。
 どうして、どうして、どうして。頭の中でこんなにも葵が遠い理由を探る言葉を繰り返してみても実際俺の口から零れたのは「そっか」の一言だけだった。ひょっとしたらこれが理性という奴なのかもしれない。「おめでとう」と言えたのはそろそろサッカーの練習に向わなければならない時間になってからぎりぎりのことだった。
 その日、俺は初めて剣城を殴った。
 剣城は何も言わず、寧ろ俺の顔を見て辛そうな顔をしたくらいだった。どうやら俺は相当情けない顔をしていたらしい。気付いたから、鏡なんて間違っても見たくなかった。泣きだすのは、勘違いされそうだから嫌だった。俺は剣城と葵が恋人同士になったことに少しも不満はない。俺と剣城が葵に向けている感情は各々全くの別物だったから、比較してどちらの方が重いとか、葵の為になるとか競い合う類のものでもない。だけど、葵が俺を置いてひとりで大人になって行ってしまうのが、本当はひとりではなくて剣城がいるからならば、俺はとても寂しい。


 葵の腹が膨らみ始める頃、俺はまた彼女の部屋を訪れた。本当は、剣城と葵の部屋だけれど、俺は剣城に用があれば大学のグラウンドや講義で顔を合わせていたからこの部屋に彼を目当てに訪ねることはないのだ。だから、俺にとってここは葵がいる部屋で、つまり彼女の部屋なのだ。
 笑っていらっしゃいと客人用のスリッパを用意してくれる葵に泣きたくなる。客人扱いされたことではなく、昔ならスリッパなんて履かずにそのままずけずけと彼女の自宅に上がり込んでいたことを思い出したから。俺は自分の部屋に誰か訪ねて来たとき、スリッパを用意する気遣いなんて出来ていない。

「天馬ったら、スリッパで歩くの下手ね」
「だって普段は履かないもの」
「だからってずって歩かないで」
「じゃあ脱いで良い?」
「だーめ、子どもじゃないんだから」

 でも大人にだってなれていないんだよ。スリッパひとつで測れる筈もないだろうけれど。少しだけ俯いて、視界に入り込む葵のスカートの揺れる裾をぼんやりと目線で追いかける。
 中学時代の制服姿の葵を、俺は今でも時折思い出してはあの頃が一番近くにいて楽しかったと振り返る。そしてきっとあの頃から俺達は少しずつ離れ始めてしまったのだろうとも思う。恋人にはどうあってもなれないのだから、いつか離れる時が来るのだと自覚しておけばまだこんな母親離れ出来ない子どものような感傷に捕まることもなかっただろうか。葵のことを好きかと聞かれたら、好き以外の答えなんて存在しないのに。

「子どもが生まれたら、葵も剣城も忙しくなるんだろうな」
「最初の方はそうだろうけど…。どうしたのいきなり」
「そしたら二人とも俺には構ってくれなくなるのかなって思ったら寂しくなった」
「イヤだ、天馬ったら。今まで通り遊びに来てくれればそれでいいじゃない。あ、子守り手伝ってくれたっていいのよ?」

 それで天馬にすっごい子どもが懐いちゃったらどうしよっか。悪戯っ子のように微笑む葵に、それでも子どもじみた面影は落ちない。自然と母親らしい色を浮かべる彼女に、俺の方を向いてもらうのはもうずっと前から難しかったのかもしれない。向いて貰ったとして、葵にどうして欲しいとも思っていないのだから前提が間違っているのだろう。
 いつだったか、葵が言った。俺とならどんな暗闇だって歩いて行けるのだと。しかしそれは微妙に間違っていたのだろう。どんな暗闇でも歩いて行けるのは、葵が俺の手を握っていてくれたからなのだ。その手を離された俺はただ迷子みたいに立ち尽くすしか出来ない。だけど葵は真っ直ぐ光に向かって進んで行けるのだろう。俺ではない剣城に手を引かれて、引いたりしながら。剣城を羨んだりしたことはないつもりだったけれど、葵との関係を何処で間違えたのだろうなんて振り返ってしまう俺は、幼馴染以外の繋がりが欲しかったのかもしれない。どうあがいたって、どうにもならないことだとは知っている。
 それでも、揺れる葵のスカートにプリーツがないことに違和感を覚えている俺は、結局何の進歩もしていない只の子どもでしかないのだろう。


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山は山ばっかりが悲しい
Title by『ダボスへ』





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