音楽室にあるグランドピアノは、小学校中学校とどの音楽室にも一つは必ずあるものだ。逆に言えば、一つあれば十分なのだ。学生は、ピアノを弾くことよりもその音色に合わせて歌うことを目的としている。コンクールに合せて選ばれる伴奏者はいつだってクラス内で一目置かれる存在で、それからついでに指揮者も。だから、常時伴奏者を務める音楽教師はこの音楽室に於いては絶対なのだ。
 茜が音楽室のピアノの鍵盤を人差し指で叩くと、ぽーんと音が木霊する。授業で教室を生徒が埋めている状態と、一人きりの今とでは耳に響く感触がどこか違うと思うのは夕暮れの時間帯故の感傷だろうか。
 指一本で一度きり。音色ではなく、只の音。この単音を連続で発するだけでメロディーと呼べるようになるものだろうか。自分の手を広げて、まじまじと自分の十本の指を見詰めながら、この指では無理だろうと頭を振る。以前ピアノを習っているという友人の演奏を背後から覗き見てみたことがあるのだが、流れるように次から次へと迷うことなく鍵盤を移動する指の動きが茜には未だに信じられない。
 そういえば、と思い至ったその先は言葉ではなく映像で思い浮かべる。自分の想い人もまた見事にピアノを奏でて見せるそうだ。音は聴いたことがあっても、鍵盤を滑る指を身近に眺めたことはなかった。

「山菜?」

 ぼんやりと鍵盤に目を奪われていると、不意に名を呼ばれる。入口の方を見れば、たった今思い描いていた人物である神童拓人が不思議そうに自分を見ていた。ずれているとは自覚しているが、今この瞬間自分が想い人である彼の瞳に映り込んでいるのだと思うとそれだけで若干胸が高鳴る。
 当の神童は、茜に呼び掛けた後直ぐに自分の用事を済ませようと彼女から視線を外してしまう。しかし今度はあまりがっかりしないのは、彼が自分をその瞳に留めることなど有り得ないのが常だとしかと理解しているからだろう。現に、拓人はピアノの前に立っていたのが自分と同じ部活の人間じゃなければ声など掛けずに、最悪一瞥すらくべずに要件を済ませるのだろう。部長として人の上に立つ彼だが、それにふさわしい実力と行動を示すのはあくまで部活内だけだ。それ以外の場はいたって普通の、そして割と狭い交友関係で生きる中学生の少年だった。でなければ、あの生真面目君はこの学校という閉鎖環境の中で窒息死してしまうよと呑気に笑って見せたのは神童の幼馴染だ。そうかもしれない。存外、神童拓人という少年は不器用だから。遠目に見つめ続けた期間ばかりが長い茜だが、見ているだけでもそれぐらいのことは分かる。それぐらいのことが分かるぐらいに、茜は拓人を見つめ続けた。言い換えよう、見つめることしかしなかった。結果として、埋まる距離などありはしなかった。
 拓人はどうやら、授業中に自分が使用しているであろう席の引き出しに譜面を置き忘れてしまったらしい。真っすぐに机に向かい、覗き込むのではなくいきなり手を突っ込んで中にある物を引っ張り出した。それが目当ての物だと確認すると、拓人は一度ほっとしたように息を吐いて、それから再び茜の方に視線を向けた。彼女が音楽室に一人でいる理由が、拓人には心当たりが無かった。両手は力無く鍵盤の上に添えられていて、失礼ながら、彼女にピアノはあまり似合っていないなどとあまり意味のないことを考えた。というよりも、目の前のメロディを奏でるという行為に対して感慨も何も抱いていないというべきか。

「楽譜ですか?」
「ああ。山菜はピアノに興味でもあるのか」
「……いいえ、ピアノそのものにではなく…指、の方に心惹かれますね」
「指?」
「ピアノを演奏している人の指の関節がどうなっているのかが不思議で仕方ありません」

 ぽーん、ぽーん。左手薬指、人差し指。右手中指、小指。適当に指の下にある鍵盤を叩く。指の本数を増やしても、何も変わらずメロディではない音が響くだけ。茜がランダムに弾きだす音を聴きながら、拓人はそれを音階に置き換えて口ずさむ。ファ、シ、ソ、シと短く続く音の羅列に統一性などまるでなく、茜の指を遠巻きに観察しながら本人の柔らかな雰囲気とは裏腹になるほど演奏には向いていなさそうなぎこちなさだと納得する。とはいえ、それは経験が皆無であるが故の現状で、練習をして慣れればそれなりに滑らかに動くようになるのだと拓人は経験上知っているが言葉にはしない。だって茜は、ピアノそれ自体には興味が無いと宣言したばかりなのだから。

「……指、見てみるか?」
「え、」
「一曲弾くから、横で見てると良い」

 茜の返事を待たずにピアノまで近付いて行く。譜面台に先程回収した楽譜を置けば次いで椅子に座ろうとすることは自然と予期される為、茜は若干反射的に自分が立っていた場所を拓人に譲ることになる。それが、意図せず彼の提案を受け入れるという意思表示にも繋がってしまう。
 慣れない至近距離に戸惑いながら、使い慣れた拓人は自分のことなどなんとも思っていないという自己暗示を強く頭の中で繰り返しながら、必死になって視線を彼の指元に集中させる。彼の好意は、自分の好意とは全く以て触れ合わない場所から発せられているということを肝に銘じなければならないのだ。
 先程までの、茜の指一本一本から単調な音を発するだけだったのと同じピアノとは思えないほど、拓人の指は柔らかく滑らかに鍵盤の上を駆けた。重複しあいながら耳触りの良いメロディーが次々と紡がれては先へと進む。楽譜を置きながらも拓人は殆どそれを確認することをしなかった。何度も弾き込んだのか、頭と指が次の音を既に覚えている。

「――…すごい、きれい」

 タイミングよく、演奏が終了すると同時に茜の口からは感嘆の言葉が自然と零れる。単純な言葉だが、それ以外の褒め言葉など浮かばなかった。拓人は茜の声音から、彼女が如何に心底からそう呟いたのかを察して、それほど驚くことじゃないと言いたげに苦笑して見せた。
 そんな拓人の呆れにも似た対応を受けながら、それでも茜は言葉にしないだけでずっとすごい、きれいと心の中で繰り返し続けた。指も、音も、もしかしたら、神童拓人という存在そのものすらも。
 いつの間にか指を凝視していた筈の瞳はあっさりとその場を離れ、今までで一番の至近距離かもしれない位置で自分を見つめている拓人の顔を正面から見据えていた。彼女からの恋心など微塵も気付かずに、逸らすことなく向き合う顔を恥じらうこともしない。拓人の瞳に映る自分の表情を、茜はじっと他人の顔の様に観察する。思っても見ない幸運だったはずの一連を過ぎて浮かべた表情は想像していたよりも喜びに染まってはいなかった。
 柔らかに滑った拓人の指を思い出す。その指に触れようと手を伸ばせば振り払われそうで、茜はゆっくりと手を背後に回し無意識に動くことを制した。自分の指は、彼のそれのようには動けまい。そのことが、茜には何故だかえらく惨めなことのように思えた。譜面台に立てられた楽譜に並ぶ音符すら、茜には読めないのだ。彼女からすれば黒い点の羅列にしか映らない音符のひとつひとつが、自分と拓人の遠い距離を思い知らせて来るようで、茜はそっと己の瞳に映る拓人を遮断するように瞼を下ろした。耳の奥に残る、彼の奏でた音色だけは、未だ消えずに響き続けていた。


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その重さを真似したかった
Title by『ダボスへ』



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