校舎二階にある視聴覚室の窓からは、サッカー部の部室に向かって駆けていく部員の姿が良く見える。音楽室や美術室といった実習教室棟は部活動に励む生徒たちの気配で少しだけ騒がしく、冬花にはこの微かなざわめきが心地良かった。遠くに響く音は、ひとり物思いに耽り沈んでいく冬花の時間をぎりぎりで周囲と繋ぎ止めている。自分もそろそろ部活に行かなくてはと思うのに、窓際の椅子に落ち着けた腰はいつまで経っても動き出そうとはしなかった。
 数分前、眼下を駆けて行った春奈は何を思ったのか立ち止まり上を見て視界に入り込んだ冬花に気付き手を振ってきた。それに応えるように手を振りながら、先に部活に行っていると叫んだ彼女に頷いてしまったことを思い出し、やはり早く部室に向かわなくてはと、思考だけが冬花を急かしていた。
 でも今日は、いつもより少し部活の開始は遅くなると踏んでいる。部長の円堂が、今日が締め切りの数学の課題に一切手を着けていなかったことを冬花は知っている。放課後に回収すると言った日直の言葉に首を傾げたと思ったら、慌てたように瞳を大きく見開いて、そしてみるみるうちに青ざめていく円堂を見るのは、冬花としては何だか新鮮な心地だった。
 助けてあげたいとは、見るからに困っている円堂を前にして反射のように冬花の内側に湧き起こった気持ち。それは、相手がある程度親しい間柄にあるのならば誰であっても同じなのかもしれない。だが冬花は相手が円堂だったからこそ瞬時にそう気持ちが動いたのだと知っている。恋心故の打算だと、自分の衝動を卑下してみせるのは、結局その衝動に従っては動けなかったからだ。
 冬花が円堂に声を掛ける前に、彼は少し離れた位置にいた風丸に助け船を求めていた。あからさまに呆れた顔をして、丸写しだけは絶対にさせてやらないと初めから宣言する彼に、円堂は薄情だと訴えながらも分かり切っていたことだとでもいうのか大人しく教えだけを請うていた。きっと、冬花のいなかった何年もの間、円堂と風丸は同じ様な会話を何度も繰り返して来たのだろう。他愛ない会話にすら、どこか慣れ親しんだ雰囲気が滲んでいて、少し寂しかった。
――私だったら、仕方ないねって呆れながらプリント見せてあげるのに。
 思えども、この場合自分の考えの方が間違っていることは分かる。円堂の為を思うなら、風丸が取った対応の方がきっと正しい。
 だけど冬花は、円堂の為ばかりには動けないのだ。円堂と対峙しようとすれば否が応にも疼く感情を胸の奥に抱えていては、意識せずにはいられない。
 ぼんやりと、ひとつの机に向かい合って問題を解き始めた円堂と風丸を眺めながら、寂しくはあれど羨ましくはないと思った。冬花は、円堂とただ幼なじみだけでいたいとは思わない。自覚した恋心の先で恋人になりたいと呟けば、必ずその後に叶わない恋だろうけれどと付け足すのは保身だろうか。
 円堂を異性として好きだと気付いてしまってから、冬花の気持ちはぐらぐらと不安定に揺れる。恋とは、ひた隠しにしてもこんなにも疲れるものだったのか。元々ぺちゃくちゃと口を盛んに動かして喋るよりは、口を噤んで熟考してから必要最低限な言葉を選ぶ方が性にあっている。嫉妬ではないけれど、悶々とした気持ちが消せなくて少し整理しなくてはと校舎内をふらふら歩いていて、丁度人気がないと身を寄せたのが視聴覚室だったのだ。このまま気持ちを切り換えられないまま部活に行っても、きっと誰かに気付かれて気遣われて上手く誤魔化すことも出来ないだろうから。かの学校のサッカー部は只でさえサッカー馬鹿が多いのに、人の感情の機微に敏い人間も割と多かったりして、失礼ながら意外に感じている。

「冬っぺ!」

 突然名前を呼ばれた上に、乱暴に引き戸を開ける音に心臓が悪いように跳ねる。自分を冬っぺなんて呼ぶ人間は一人しかいないのに、思わず誰だと勢い良く振り返って相手の顔を見た。

「…守君」
「やっぱり冬っぺだ。向かいの廊下から視聴覚室に誰かいると思ったら冬っぺに似てたからさ、走ってきた」
「違う人だったら怒られてたよ」

 どうして、どうして、ねえ喜んでいいの、特別なんかじゃないんでしょう、でも走って来てくれたのは事実だわ。
 脳内で期待と保身がせめぎ合って冬花は次の言葉が上手く探せない。言うべきことはたぶんそれ程多くはない。意味深に探っても、円堂は会話で駆け引きをする人間ではないから、きっと冬花の葛藤など無駄だというように言葉を発するのだろう。別に、冬花だから駆けて来た訳ではない。そう結論付けたのは、円堂ではなく冬花自身だけれど。
 部活に向かわずにこんな所でぼんやりしていることには一切言及せずににこにこと笑っている円堂には、同じように笑ってみせるしかない。相手がこうしたから自分はこうするなんて、不自然なくらいに当たり前で。他人の出方など伺わない円堂の在り方はどこまでも自然体だから不自然だ。他人を引っ張る彼はきっと前ばかり見ているから自分の背中をじっと見つめている冬花の存在に気付かない。それはきっと冬花にとっては残酷で、変わらない日常を引き延ばすためには好都合だった。

「なあ冬っぺ、部活に――」
「ねえ守君」
「ごめん、何?」
「…ううん、何でもないの。ごめんね守君」
「冬っぺ?」

 何を言おうとしたのだろう、今。被さってしまったが故に中断しなければ、さらりと流れるように紡がれていたであろう言葉は、冬花からすれば完全な無意識だった。
 よもや「好きだ」などと囁こうとしたのではあるまいな。まるで他人事のように、糾弾する。たった今、円堂と自分との噛み合っていない部分を認識し直したばかりだというのに。

「…部活に行かないの?」
「行くよ、冬っぺも行くだろ?」
「ええ…。うん、そうだね、行くわ」

 またしても自分を当事者から弾くようにして、円堂に停止した場面の先を促せば彼はさも当然と冬花を引っ張り場面に引き戻す。サッカー部という、彼の日常の全てといっても過言ではない舞台。どうやら冬花は、円堂の舞台の中の登場人物としてしっかりと認識されているらしい。ただ、繰り返しになるが冬花が存在したいのは、サッカーばかりの円堂の世界だけではないのだ。
 円堂は、一体いつ誰とどうすれば恋を覚えてくれるのだろう。自分ではないのだろう。自分であればいい。自分でなければ嫌だ。どれもこれもが嘘偽りのない本音だった。いつか円堂が他人の恋すら理解出来るほどサッカー以外のことに目を向ける時が来たその時に、冬花は自分の気持ちをどう扱うのかを想像しては答えを出せずにいる。
 こんなに正解の出せない悩みばかりに心を犯されるのならば、円堂のように恋など知ら只の幼なじみに収まっていれば良かった。時折そう捻くれてみても、最終的には消せない気持ちを認めるしかない。

「冬っぺ?」

 円堂は、冬花が立ち上がり歩き出すのを待っている。それを知りながら時間を稼ぐように目線を外してもう一度窓の外、部室へと続く道を見下ろす。
 瞼を閉じれば、部活に走って向かう円堂の姿をはっきりと思い浮かべることが出来る。だが次いで自分の姿を描こうとすると何故かゆったりと歩いている像になってしまう。これでは、円堂との距離は開く一方だった。
 それならば。こうして沈黙を持て余しながら向かい合っている方がよっぽど幸せだ。意地の悪い思考に甘えたくなる気持ちを叱咤して、せめてあと十秒だけでもと願った。部活はもう、とっくに始まっている時間だ。


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つまり曖昧、悪くはない
Title by『Largo』




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