突然他人様の部屋に現れて、目の前でにやにやと笑っている少年に、冬花はやれやれと息を吐いた後、同じ様に笑んで見せた。相変わらず、下地は良いのに下卑た笑い方をするのね、と指摘すればそういう野蛮な表現をするのは冬花だけだと流された。本当に顔だけは上等なのだ。ミストレーネ・カルスという少年は。
 呼び捨てなのは出会った十年ばかり前から相変わらずだったが、目の前にいるミストレの姿までもが十年前と何一つ変わらずにいるものだから、冬花は奇妙なものだと首を傾げた。
 冬花の生きる現在と、ミストレの生きる未来とは時間の流れる速さが違うのだろうか。難しい原理や理屈を唱えるには知識が足りないので、何とも言えない。だがそんな冬花の心情を汲み取ったのか、ミストレはにやりとした笑みを崩さないまま、あっさりと彼女の疑問の答えを投げた。

「数日前に会った冬花はまだ中学生だったよ」
「と、言うと?」
「俺は十年前に冬花が最後に会ってから数日後の俺ってこと」
「ああ、成程」

 そんなに久しぶりになるのか。ミストレと最後に会った日を振り返ることは、それ程困難なことでもない。出会いや日常の繰り返しは淡白で、脳をつつくような刺激がなければあっさりと抜け落ちてしまう記憶ばかりなのに、何故か別れの記憶というものは忘れようとしてもなかなか簡単に拭い去れるものではない。そんな風に、冬花の中にもミストレと最後に会った日の記憶は鮮明な部類で刻まれている。
 最後に会った日とは、ミストレと冬花がお別れをした日のことである。儀礼的な方ではなく、これまでの関係をゼロにする方のさよなら。執着も問答もなかった、淡白な別れだった。
 そもそも付き合ってたんだっけと問えば別に告白も好意を仄めかす仕草も別段なかったのだから、さよならする意味自体なかったのかもしれない。

「形式美だよ」

 さよならを切り出した冬花の意図を測りかねているらしかったミストレに、冬花は自信満々に言ってのけた。そしてミストレは、そんな彼女の言葉に納得したように頷いた。
 二人は恋人ではなかったけれど、そういう関係の人間がやりそうなことを一通りお互いを相手にして体験していた。手を繋ぐことから始まり、ハグとキスを経てセックスに到るまで、とんとん拍子に進んでしまったことに、本人達が一番驚いていた。ただ唯一、頬を紅潮させるとか戸惑いがちに視線を逸らすといった、初々しさだけは欠けていたように思う。だからきっと、二人の周囲の人間は、誰一人として彼等の間に出来上がっていた関係に気付くことはなかった。
 冬花はミストレが未来の人間だと知っていたから、まず恋愛がどうのこうの語れる存在じゃないと割り切っていた。一方のミストレは、冬花を好意的に捉えていたことは認めるがそれ以上は分からなかった。何分、女には不自由しなかったので、とは嫌みではなく事実である。
 だから、本当に冬花にどうしても諦めきれないといった執着心を抱くのならば、力ずくでも構わないから未来に連れ帰ってしまえば良いのだと気楽に構えていた。が、このことをうっかり冬花本人の前で言ったら思いっきり顔を顰められた上、その時彼女が持っていた通学用鞄で背中を殴られた。

「私が突然いなくなったらお父さんが悲しむでしょう」

 あと自分だけが私をどうにか出来るとか思い上がるのはやめて。
 表情は不愉快そうに歪んでいるが、声の抑揚は普段と何ら変わらない様子で訴えてくる冬花にミストレは言葉が出てこなかった。殴られたことではなく、抗議の内容があまりに幼稚だったことが。お父さんが悲しむってお前他に言うことないのかと問えば例えばと例示を求められた。そういわれるとミストレも黙るほかない。
 ミストレからすると印象的な、だが冬花からするとそれ程印象的でもない会話をした数日後、冬花はミストレとさよならをした。ミストレは理由を聞かなかったから、冬花も要件だけをぽつりぽつりと吐き出してあっさりと彼に背を向けた。だけどもし理由を聞かれていたのなら、冬花は躊躇いもなく「不実だから」と答えていただろう。それは二人の関係がとかではなく、冬花自身が父親に対してそう感じたから。
 ミストレと関係を持つようになってから、少しだけ家に帰る時間が遅くなった。冬花にとって一日が二十四時間しかないのは当たり前で、その中で新しく誰かと関係を持つ時間を作ろうとすれば自然と家で過ごす時間から削がれていく。学生である冬花には仕方ないことだったし、彼女の中でも、ミストレと過ごす時間はいつの間にか楽しいと認識されるようになっていた。
 そうして日常に現れた新しい刺激に夢中になっている内に、冬花は家に帰る時間を遅くしていった。それは別に夜遊びと呼ばれるほど遅くはない。けれど一緒に暮らしている父親ならば、それが習慣化すれば疑問に感じてしまうようなズレ。
 物言いたげな視線とかち合う度に、冬花の中で楽しかった筈の時間が罪悪感にすり替わっていく。どんなにミストレと大人ぶった戯れに興じても、自分はまだ子どもなのだと冬花は気付いている。少なくとも、ミストレと父親を天秤に掛ければ一瞬で後者に傾いてしまう程度には自覚がある。今はまだ、娘として愛される自分でいたい。
 ミストレの知る由もない場所で、冬花は考えて結論を出して彼と別れた。思い立ったら即行動したまで。身勝手と罵られるかとも思ったが、普段の彼の自己中心的な振る舞いからすればどっこいどっこいだろうと呑気に構えた。最初からハッピーエンドなんてないのだから、縁が深くなる前に断ち切ってしまうのも間違いじゃない。
 ミストレとの関係を絶つことを正当化する為の言い訳が予想外に沢山あって、冬花も驚いた。こういう所が、切れるべくして切れる関係だったのだと、冬花は冷めた思考の片隅で思いながら、十年間一度もミストレのことを回想するでもなく平凡に過ごして来た。

「ミストレ君は今日は何の御用かしら」
「別に?あっさり俺を捨てた冬花がどんな大人になってるか見たかっただけ」
「そう。ところで、さっきから土足で私の服を踏んでるのはわざとよね」
「うん、当然」
「分かっててやってるんだよね、ミストレ君は」

 呆れた、と溜息を零して、ミストレの足の下にある服を引っ張って救出する。これから着替えようと思っていた白いワンピースには、彼の足跡がくっきり着いていて、残念ながら着れそうになかった。
 今日はこれから、職場の先輩に誘われた飲み会に行く予定があったのだけれど。服の替えならあるけれど、下降してしまった気分の替えはない。一気に行く気が失せた。元々乗り気じゃなかったのだし。
 分かっててやってるんだよねの言葉に肯定も否定も寄越さないミストレに、冬花は子どもだと思わずにはいられない。相変わらずにやにやと冬花を見ているミストレは、きっとこのまま今日の外出はやめにすると言えば更にその笑みを深めるのだろう。冬花には、それがあまりに癪だったので、先ずは汚された服のクリーニング代を請求してやろう。
 こんな子どもじみた気の引き方しか出来ないミストレに張り合っている自分もまだまだ子どもじみているとがっかりしながら、相手がミストレだからまあ良いかと無理矢理に納得する。
 取り敢えず、金払え。



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渦中の君は笑っていた
Title by『にやり』




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