病室の窓から見る世界が、どうにも苦手で仕方なかった。 だって、空はもっと広いのだと知っている。入れ替わる空気の涼やかな気配が、こんなちっぽけであるはずもない。身体に纏わりつく熱気や、自分の生き抜くべき場所全てがこのフレームを飛び越した向こう側にばかり存在している。だから一之瀬は、いつだって帰りたい帰りたいと、好きでもない景色を四角い枠の向こうに見ては退屈に溜息を漏らすのだ。 「一日くらい我慢しなくちゃ駄目よ」 柔らかく一之瀬の耳に届く声に、一瞬で意識が引き寄せられる。部屋の入口から彼の下にゆっくりと歩いてくる秋は、毎度病院にやって来れば同じような表情を見せる一之瀬を軽く諫めた。 幼い頃の事故の後遺症、その後手術とリハビリを乗り越えて一之瀬はサッカー界に戻ってきた。それでも、経過観察期間として数ヶ月に一度は病院に定期検診としてやって来なければならなかった。 医者との軽い面談と触診で終わることもあればやたらと大仰な機械まで持ち出してくることもある。時間も、ものの数分で終わることもあれば一日入院しなければならないこともある。今回は時間が掛かるから、病室を用意され入院することになっていた。具合が悪いわけではないので、入院よりも宿泊の感覚に近い。 大事に至らないからとは言っても、経験上一之瀬は病院を好きとは思えない。世話になった医師等には心底感謝しているが、それとこれとは話が違う。 一之瀬の枕元に椅子を引いて座っている秋をじっと見つめる。病院ベッドを起こして背中を預けると、普段の自分と彼女の距離感が狂うのが嫌いだ。遠く感じて、距離を詰めようとすると秋は決まって危ないからと一之瀬を真ん中に戻す。手すりの隙間から落ちるほど、自分は小柄な少年ではないのだが。 ベッドの真ん中。視線を落とすと、一之瀬には今だってはっきりと見えるのだ。薄い布団に包まって、真っ白なシーツを握り締めながら泣き喚く幼い自分。サッカーを取り上げられて、何も残っていないと決め付けて、消えてしまいたいと願った。一之瀬の人生で、きっとこれ以上はないという位に泣いた。とめどなく涙は溢れ続けたのに、記憶に残る頬を伝う水の感触は今でもやけにリアルで、時折頬に手を添えては自分が泣いていないことを確認してしまう程だ。 そうして嘆き果てた挙げ句消したのは、大切な幼なじみ達にとっての一之瀬一哉だった。死んだとだけ伝えて貰ったその後、彼等がどんな風に自分の虚言を真実として受け止め、受け入れていったのか。それを知る資格は、一之瀬にはなかった。泣いてくれたら、悲しんでくれたなら嬉しい。不謹慎だけれど、そう思う。 「…病院は嫌いだな」 「好きでも困るわ」 仄暗い回想をぼかす為の会話はうまくいかない。秋の言葉にそれもそうだねとしか返しようがなかった。 無造作に放置していた携帯を開いて時刻を確認すれば面会終了時間が思ったより近付いていた。こういう所も、一之瀬は好かないのだ。病室に閉じ込められていると、どうにも時間感覚が鈍るから、折角秋と一緒にいられる時間をちゃんと過ごせていないと感じてしまう。 「秋と会う時間が制限されるって変な気分だ」 「そうね。でもまた明日の朝に来るから」 「午前で検査終わるから、無理しないで良いよ。俺が迎えに行こうか」 「大丈夫。無理をしてでも来るわ」 秋がやけにはっきりと言い切ったので、一之瀬はそうかとそこで会話を終えるしかなかった。さっきから、自分は話題のチョイスを間違えているのだろうか。 もう一度秋の顔を見ると、彼女の視線は窓の向こうに注がれていた。ぼんやりと、焦点の定まらない視線を追って、一之瀬もまた窓の外に目を向けた。視界に映る景色は、つい先程見ていた物と何ら変わりないかった。 「――私も、病院は好きじゃないの」 「ん?」 「病院ってどこも悪くなければ来なくていい場所でしょ。だから一之瀬君がこうやって検査の度に病院に行かなきゃってなるとね、なんだか怖くなっちゃうの」 「…うん」 「怖くて怖くて仕方ない。だから絶対私は朝から一之瀬君に会いに来るの。分かる?」 「分かるよ」 何が、の部分を悉く省いた会話が成り立つのは、一之瀬が紛れもない当事者だから。怖いと唇を動かした時、秋の瞳が僅かながらに揺れたのを、目敏い彼は見逃さない。 責めている訳ではなく、過去があり出来上がった秋の、普段は見せない価値観や本音に触れた時。一之瀬は、昔の短絡的だった自分に未来を教えてやりたくなる。正すのでも、怒るのでもなく、お前のその場しのぎの行動は、お前の一番大切な女の子を深く傷付けたんだぞと教えてやりたい。それは寧ろ、過去の自分から、現在の自分への言葉でもあったけれど。 一之瀬の死に怯える秋を、彼自身救ってやりたくて、だけどどうにも出来なかった。少なくとも、こんな経過観察が終わらない間は絶対に。 「杞憂よね」 「勿論」 「良かった」 確認よりも自分に言い聞かせるような秋の言葉に、一之瀬は分かりきった返事で応える。 未来のことなど何一つ知り得なくとも、もう二度と自分の勝手で秋を遠ざけたりはしない。これだけは絶対だから、揺らぐことも後ろめたさもなくきっぱりと断言した。もしかしたら、今はまだ秋には全てを信じては貰えないかもしれないけれど。 会話して、手が触れて、抱き締めて。そうして分け合ってきた物だけではまだ埋めきれない距離がある。漠然とした不安が秋に付き纏って、悲しい過去をちらつかせて邪魔をする。ならばその距離を埋めればいい。時間は掛かるし、きっとその方が良いのだ。共に過ごして行けるだけの時間が、今の二人にはあるのだから。 「分かるよ」 秋の不安や、自分の気持ち。身体のことや、これからの二人の為にすべきこと、したいこと。薄ぼんやりとだけど、ちゃんと分かっている。 不思議そうに見つめてくる秋に微笑んで、上体だけ距離を詰めて彼女の頬にキスを送る。唇を避けたのは、近付くしばしの別れすら余計に寂しくなると思ったから。 「一之瀬君?」 「…何?」 「…なんでもない、」 「そう…」 寂しくならないなんて、無理だけど。 明日は、もっと沢山話せる筈だから。朝からこの部屋へやって来る秋を思い切り抱き締めて、帰ったらまた抱き締めて、それからキスしたり二人でゆっくり過ごそう。 そんな幸せをイメージして、何度もまた明日と秋を送りだそうとするのだけれど、声が喉から出て来ない。秋も、椅子から一向に腰を上げようとはしなかった。 いつの間にか、お互い無意識に繋いでいた指先を解くこともせずに、面会時間の終了を告げて回る看護士の声をどこか遠くに聞いていた。 ――――――――――― 今この瞬間にだいすき Title by『Largo』 |