※セイリカ←マーク

 太陽が西の空からどんどんと沈みこんで、東の空を見遣れば既に紫紺の空が広がっていた。秋がやって来たのだと、マークはひとりグラウンドでボールを抱えながら空気を吸い込んだ。夏の名残りの湿気を残しながら、ジャージの襟元を擦り抜けて首筋をなでる風はどこか冷たい。夏と呼んだ数週間前とは格段に陽は短くなっている。サッカー少年であるマークには、どうにも物寂しくて仕方ない。
 練習後、もう帰ろうとしたマークの視界に飛び込んできたのは、ベンチの隅でぽつんと取り残されたボール。どうやら片付け忘れてしまったらしく、マークは面倒だとは思いながらそれを片づける為に再びグラウンドに戻った。用具庫と部室の鍵は部長であるマークが管理している為、急ぐ必要もなかった。もう他の部員も帰ってしまったのだろう。彼を囲む空気はまるで音など忘れてしまったかのように静かだった。

「マーク、」

 聞き慣れた、というよりも聞き覚えた声が、自分の名を呼んだ。ぼんやりとしていた視線の焦点を、声がした方に向ければ、そこにはマークが浮かべた声の持ち主と違わぬ姿があった。
 マークを呼んだ少女は、グラウンド周りのフェンスに指を掛けて、片方の手を胸の前でひらひらと左右に振っていた。慌ててフェンス越しの彼女の前まで駆け寄れば、やはり彼女だとマークは目を見開いて驚きを伝えた。

「リカ?」
「久し振りやなあ。今部活終わったとこ?」
「…ああ」

 何故ここにいるんだろう。真っ先に浮かんだ疑問を口にする前にリカが喋り出してしまったから、マークは彼女に尋ねることが出来なかった。こういうことは、たぶん一番最初に聞いた方が楽だとは思うのだが、女の子特有の一を喋り出したら二も三も喋り続けるリカの話の途中に割って入ってまで質問をすることは出来なかった。何より、久し振りに会うリカが、今自分の目の前にいるという喜びが表情や声音に漏れ出さないようにすることの方がマークにとっては重要だったからだ。
 いつもなら、リカが忙しなく口を動かしている間、マークはただ相槌を打っているばかりだった。リカは、自分のことを話している最中に補足として全く関係ない話題を挟んでくることが多々あった。だからマークは、彼女の言いたいことその本質を逃さないように、適当に相槌を打っているようで、頭の中はフル稼働にしながら黙していた。今日もそうだろうと思っていた。どんな理由でここに来たにせよ、挨拶もそこそこに、彼女は自分の近況について話しだして、自分はそれにただ相槌を打つ。
 しかし、今日のリカは話していた内容を忘れてしまったかのようにぱったりと口を閉ざしてしまった。それから、至近距離にあるマークの瞳をじっと見つめてきた。普段なら、気恥ずかしさで逸らしてしまうのだが、今日のリカはマークを困らせようだとか、遊び心なんて全く含んでない目をしていたから、マークはそのまま動けなかった。実際は無意識にしているのだろうけれど、瞬きすら出来ないような、そんな凄みすら持っていた。

「リカ、何か…」
「あんな、うち今日マークにお別れを言いに来てん」

 あったのかと続く筈だった言葉は、あったんだなという納得でマークの内側に散った。とはいえ、リカの言葉に納得と理解を示せるかと聞かれれば間違いなくノーだった。お別れって、さよならのことだろうか。さよならって、お別れのことだろうか。大差も小差もない同意語をぐるぐると反芻して彼女の意図することを探り当てようとする。またね、とは違うんだろうかとまた余計な疑問が顔を出したからその頬をひっぱたいて退場させる。どうやら、ひどく混乱しているようだった。

「ウチな、遠いところに行くんよ」

 事情を説明してくれるつもりなのか、リカは一度空を見上げた。太陽は既に西の地平線にその姿の半分以上を隠していて、いつもと変わらぬ色の暗闇は広がり、マークとリカにも覆い被さって二人の色を隠していた。

「遠くってどこ?お別れしなきゃいけないほど遠くって、そんなとこ…」

 今だって、日本とアメリカという遠距離にあってそれ故のもどかしさと不安に耐えて、マークはリカを想っているのに、彼女はあっさりと遠くに行くからもう会えないと告げる。それはマークにはひどく残酷なことのように思えた。仮に、リカが自分に何も言わずに消えることを選ぶことの方が客観的に見たら残酷なのかもしれない。だけど今のマークには既に可能性を排除された想像と、実際に訪れた現実を天秤に掛けて優劣をつけて妥協することなど出来なかった。
 リカは別れのことを口にしている最中、寂しさよりも困惑しているようだった。それは母親が子どもにどうしてそんな聞き分けが無いのと言う場面に酷似していて、マークは苛立ったし何より虚しかった。

「好きな人と、一緒に生きて行くって決めたんよ」
「生きる…?」
「その為に、うんと遠くへ行って、今のウチの大事な人たちとはお別れせなあかんの」
「何でそんな寂しいこと…」
「寂しいわな。でもな、ウチあんま頭は良おないけど、一生懸命考えて考え抜いて決めたんや。後悔なんてせえへん」
「そんなの分からないだろう」
「まあ、せやなあ。後悔やから今はまだせえへんよな。それでも、少なくとも今はウチ、幸せやで?」
「……そうか」

 俺は不幸のどん底だ。自分たちの間に在るフェンスが、まるでこの世とあの世の境界だとでもいうかのように厚く邪魔なものに思えた。触れそうなほど近くとも、決して交わらない想いばかりがそこにある。
 リカに好きな人がいることは、マークはずっと知っていた。片想いばかりが積み重なって、どんどん都合の良い友人の枠に埋もれてしまっていた。リカが自分の仲間への恋を終わらせた時、何故真っ先に駆け出さなかったのか、マークは今でも考える。先手を取るのが苦手なのかもしれない。いつも、自分が喋る前にリカが喋り出してしまう、そんな具合に。
 傍にいられるだけで良いなんて、十代の子ども使うにはませた響きかもしれないが、マークはそう思っていたし、そう自分を納得させていた。リカが自分以外の誰かを選ぶのは辛かったけれど、リカの抱える事実がひとつ増えただけで、彼女の友人でしかないマークには、表面上はなんの変哲も与えないことだった。それが、こうして好きな人を選んだだけで離れ離れになるという事態になるのなら、マークは今までの自分の迂闊さを悔いるしかない。耐えていたのではなく、甘えていたのだと今更気付かされた。そして、それを挽回するチャンスは、もうない。

「……いつ、行くんだ?」
「すぐ。マークが最後なんよ」
「最後って?」
「言葉通り。お別れの挨拶をするのは、マークが最後や」

 好意的な笑顔を向けてくるのだから、この最後は、マークにとっては喜んでいい方向の意味を持っているらしい。次を焦らなくていいから、最後にしたのだとリカは言う。一番ちゃんと話したかったのだと。
 マークは泣きたくなった。マークだって話したかった。いつもただ頷くしか出来なかったけれど。本当は、聞きたいことがあって、聞いてほしいことだってあったのだから。それでも涙を流すまいと維持になるのは、結局最後まで友人という位置にしか在れなかった自分の当然の対応だと思ったからだ。
 ぶわりと、音が立つほどの強い風が吹いて、少しの沈黙の中に二人を置き去りにした。マークは、嫌な風だと思った。ついさっきまで感じていた季節を匂わせるものとはどこか違う。それはリカも同じで、ただ彼女はその風が何かということをちゃんと知っているらしく、慈しむように目元を細めると、そのままフェンスに掛けていた指をはらりと解いた。

「堪忍な、もう時間みたいや」
「…リカ」
「今まで色々とありがとうな、マーク」
「……っ」
「ほな、さよなら」

 咄嗟に引き留めようとフェンスに足を掛けた瞬間、もう一度あの嫌な風が吹いて、マークは反射的に目を閉じてしまう。そして、次に目を開いたとき、そこには誰もいなかった。
 人が忽然と消えるなんてことは、日常の予測の中にはあり得ないことなのに、マークはやっぱりと思っただけで、ただ無人となったフェンスの向こうを凝視するしかなかった。リカが此処に自分に会いにきたことを、明日誰かに話したとして、一体どれだけの人が信じてくれるだろう。一部始終を話せば話すだけ、マークは奇妙な目で見られるだろうし、リカの存在が否定されるような気がして、結局誰にも話さずにいるのだろう。
 風が止んで、ふらふらとマークの足元に何かが落ちて、何とはなしに視線を向けると何故か白い羽が落ちていた。拾い上げてみると、野鳥の羽にしては綺麗過ぎて、だが作り物でもないらしかった。こんなものがリカの名残かと、マークは口元に嘲笑を浮かべて羽を再び地面に落とした。力なく落下していくそれを見ながら、マークは何となく、きっと自分は死ぬまで天使が嫌いなのだろうと予感した。まさかリカが天使に攫われてしまったなんて、彼女と同じで人間であるマークは信じたくなかった。
 地面に落ちた白い羽が、辺りを支配した暗闇に屈することなくその色を主張していることに、マークは気味悪さと嫌悪を覚え、そのままこの場を立ち去った。暗闇の中、音すら消えたグラウンドの片隅で、その白だけが存在を主張していた。


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真っ白くて怖い神様
Title by『ダボスへ』




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