※数年後


 自分の発する言葉と、周囲の発する言葉に、どうしようもない齟齬が含まれていることに、ルシェはつい最近気が付いた。
 周囲の人間が、ルシェの知人であるフィディオ・アルデナという人物について対して用いる「凄い」と、ルシェが彼に用いる「凄い」とでは、どうやら微妙にニュアンスが違っているらしかった。
 ルシェがフィディオを凄いと思うのは、もう何年も前、それこそ出会った頃から感じていた想いが刷り込みとなって拭えないからだろう。光を知らなかったルシェは、物に触れたり、支えなしに歩くことに物の位置取りを把握するのは容易なことではなかった。自分の瞳で世界を映すようになった時も、ルシェは常人よりも過敏に壁やら部屋に置かれた物の位置把握をしていたほどだ。だから、フィディオが足だけで華麗にボールをさばいているのは信じがたいほど衝撃だったし、そのまま走って他の選手を置き去りにする姿を見た時は単純に凄いとしか思えなかった。それが、あの頃まだ多くの言葉を知らないでいたルシェにとっては最大の称賛の言葉だった。
 ルシェの周囲の人間が発する凄いとは、主にフィディオの遺した功績だったり、彼が身を置く環境だったりにばかり向けられている。イタリア代表の副キャプテンとして世界大会で活躍しただとか、現在ハイスクールに在籍しながらプロのユース選手として高く評価されているだとか、あの端正なルックスでどこぞの美人さんに告白されたけど、それはもう優しい言葉で丁重にお断りして相手が更に惚れ直したとか、そういった類のことを人々は口々に凄いと称賛するのだ。
 サッカーが出来ること自体、ルシェにとっては凄いことだった。だからフィディオのチームメイトであるマルコやジャンルカ、アンジェロだって勿論、ヒデだって十分凄い。以前そう言葉にしたら、一緒にいたルカはそう思うよと頷いてくれた。それからふと考え込んで、ルシェの頭を撫でながら「ルシェは人を見る目があるのかないのかわからないね」と言った。「私の目はちゃんと見えてるよ?」と返したのは、ルシェがまだ幼かったから笑って許容されたのだろう。今思うと、頭の悪い切り返しだったと自分でも思っている。

「お兄ちゃんって凄い人なのよ」

 面と向かってフィディオに告げれば、彼はシャワーを浴びて首にタオルをぶら下げた格好で「そうかい」と口元を緩めた。笑ったのではなく、よく分からないから誤魔化したのだろう。年を追うごとに見抜ける彼のあざとさが増えていく。ルシェはそれをどうこう思ったりはしないのだけれど、フィディオは小さい頃からの知り合いである彼女に自分の良い面ばかり見せていられなくなって行くことに少し申し訳なさを覚えていた。そのことで、ルシェが自分に幻滅して離れて行ってしまうことが怖いのだ。

「お兄ちゃんはあんなに上手にサッカーが出来るんだもの。それってとっても凄いと思う」
「たぶん、ルシェの視点で見れば、上手にサッカーをする人間なんて世界中にごまんといるよ。君だって見ただろ?」

 幼い頃、ヒデに手を引かれ訪れた世界大会のことを思い出す。初めて見たサッカーが子どもの大会とはいえ世界が舞台だったのは、ルシェにとっては階段を何段も抜かすようなものだった。基礎を積めばある程度出来るようになるレベルを知らない。世界レベルを標準値と思いこまれても困りものだが、世界レベルばかりを真に受けてサッカーが出来る全てを凄いと呑み込んでしまったルシェに、フィディオは今でもこうして手を焼いている。
 いつまでも純粋にいてくれるのは喜ばしいが、純粋さ故に飛び出した言葉が他人を混乱させるなんてことも在り得る。現にフィディオは、ルシェの言葉に礼を言って丸く収めるという無難な手段を選べなくなる程度には混乱している。出会ってからの月日を換算しても、今さら過ぎて偏見にも近い根底を覆すなんてそうそう出来やしない。

「じゃあお兄ちゃんが凄いのは世界大会に出たからなの?学生なのにプロに一目置かれているから?それとも評判の美人な女性に告白されたから?」

 一体どこからそういう情報を仕入れて来るのか。フィディオは今度はルシェにも見えてしまうと思いながらも表情に苦笑を浮かべざるを得なかった。ルシェを取り囲む人間は、自分が思った以上に俗物らしい。彼女が純粋であるからと言って、周囲がそうであるとは限らない。彼女を中心にして偏ったものの見方をしてしまうフィディオは、時々言葉にしないまでも辛辣な評価を他人に下したりしている。そんな自分も十分俗であると、自覚してしまっているから質が悪い。

「世界大会に出た人間は俺だけじゃないし、学生の内にプロの声が掛かるのも俺だけじゃない。評判の美人さんなんて場所を変えれば沢山いるし、その全員が俺だけを好きになる訳じゃないよ」
「じゃあお兄ちゃんは凄くないの?」
「少なくとも、俺は自分を凄いと思ったことはないね。ルシェが俺のことを凄いと言ってくれるのは、単純に嬉しいけれど」

 ルシェは分かっているのかいないのか、少しだけ残念そうに視線を下げた。「凄い」という言葉の中に含まれていた「憧れ」を叩き壊してしまった。フィディオとしては、凝り固まったルシェのそれに、少しだけ叩いてヒビを入れるだけのつもりだった。直ぐには理解出来ないかもしれないし、これからも徐々に広がり続ける世界の中で受け入れてくれればいいと思っていたのだが。本人に直接自分の価値観を否定されたことによりルシェの観念はあっさりと瓦解してしまったらしい。

「じゃあお兄ちゃんは何なの?」
「何って…。そうだなあ、ただのフィディオ・アルデナだよ」
「それって普通ってこと?」
「そう。普通の俺は嫌い?」
「わかんない。でも好きだと思う。だってこれまでずっと好きだったんだもの」
「……ありがとう」

 さらりと凄いことをいうルシェに、でも無意識なんだよなあと分かっているフィディオは彼女の頭を撫でた。ルシェは、何故フィディオがお礼を言って自分の頭を撫でて来るのか分からなかったけれど、昔から彼とその仲間にこうされていた彼女は、割と頭を撫でられるのが好きだったのでそのまま黙ってされるがままになっていた。
 もし、フィディオにこうされるのが一番好きだと言ったら、彼はこのまま自分に触れていてくれるだろうか。温かな手に、ぼんやりとそんなことを考える。凄い人だとばかり思っていたフィディオが、実は普通の人間なんだよと宣言したことは、それなりにショックでもあったけれど、それだけのことでもあった。思えば何も変わらない。それどころか、彼が凄くもなく普通であるならば、同じく普通の自分とずっと一緒にいてくれることだて可能だろうと思うと、ルシェの中ではフィディオが普通の人で良かったという想いが急速に育っていく。
 うっすらと目を開けて見上げたフィディオは、凄い人だと思い込んでいた数分前までと何も変わらなかった。


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洋なしのこころ
Title by『ダボスへ』





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