庭でいっぱいに水を張ったたらいの中に裸足で入る。氷水に差し込んだ両足は徐々に感覚が鈍くなって来ていた。暑さを和らげる為に取った手段としては些か性急すぎたかもしれない。それでも徐々に慣れてくるだろうと、バランスを崩さないようしゃがみ込んで、涼しさを求めて用意した氷水が温くなるのを待った。
 太陽光を真上から浴びながら、涼を取れない顔から滴り落ちた汗が、秋が足を入れているプラスチックのたらいの中に波紋を作った。まっさらな水の中に、自分の内側から零れ落ちた雫が溶けていく。見分けることなど出来るはずもなく、それでも決して同化することはあるまいと、秋はどこか不愉快そうに息を吐いた。不愉快だとして、それをどうすることも出来ないから秋は内にたまった感情を上手に吐き出す術を知らない。
 吐き出すこととぶつけることは本来違うことだ。だが秋にはその明確な区別が付けられない。相手を必要とするならば、きっと同じことだと思えた。慰められたい、理解されたい、優しくされたい、とめどない欲求が人間の内側にあって、当然人間である秋の内側にもある。
 全てを聞いて欲しい。もやもやとした、一生掛かっても言葉に表すことは出来ないであろう気持ち、その全てを。黙って聞いていて欲しい。誰にとは言わないし、言えないけれど。
 ぱしゃん、と手を水面に叩きつけた。

「海に行きたいね」

 夏の始めに秋が口にした言葉は、きっと地球上の数多くの人間が同じようなことを言っている、そんな表現だった。
 発信者であるにも拘わらず、秋はこの夏に海に行くことはないだろうと思っていた。自室の壁に貼り付けた、手作りのカレンダーを見れば一目瞭然。部活動用として、コピー用紙に枠線と日付を書き込んだだけのそれにはびっしりと活動予定が記入されていた。休みらしい休みといえばお盆シーズンくらいだ。お盆はお盆で、既に家族で祖父母の家に遊びに行くことになっているから、実際秋が自分の都合で予定を立てて遠出に充てられる休みなどほぼなかった。
 不満はなかった。こんな過密な予定を組めるほど部活が成り立っていることは、秋としても喜ばしいことだった。
 秋の隣で、海いいなあ、と返した円堂だって、この夏に海に行くことなんてないだろう。不思議なくらい、サッカーしか見ていない人なのだ。人間って、ここまで盲目にひとつのことに打ち込んでも生きていける人なのねと秋に教えてくれた人。今頃、彼はいつも通りお気に入りの場所でサッカーをしているのだろう。
 円堂にとって、サッカーがサッカーでしかないように、それが部活か個人でするかなんて、大した差ではないのだろう。いつかチームで試合をする為に、彼はひとりぼっちで努力することを厭わない。無駄なんて、一時も疑わないのだ。秋だって、疑ってなんかいない。疑っていたら、二人ぼっちのサッカー部なんてとっくに諦めてしまっていただろう。
 夏が来て、みんなが夏休み返上を覚悟でサッカーに打ち込む。それもまた良いことかもしれない。夏らしい風物詩を一切感じられなかったとしても、夏は夏だ。当たり前のように過ぎて行く時間の中で名付けられた曖昧な区切りに過ぎないそれを、何故人は心待ちにして、時には煙たがるのだろう。理由なんて人それぞれで、秋にはその他人の理由に共感出来るだけの価値観が固まってはいない。

「夏は長い時間サッカーが出来るから好きだ」

 秋の耳の内に、いつだったか円堂が放った言葉が蘇る。どんなに日が長くとも、秋自身がサッカーをすることはない。ただ泥塗れになって、絶えない擦り傷を拵えながら練習に勤しむ彼等を見守るしか出来ない。
 こじつけるなら、夏はおにぎりを作るのが大変だから、少し辛い。炊き上がった米の熱気に近付くだけでも汗が浮かんで来るのだ。だけどその分洗濯物が早く乾いてくれるのはとても助かる。用意したドリンクも、みんな冬よりも美味しそうに飲んでくれるような気もする。
 悪いことばかりじゃない。季節が巡る中に嫌なことばかり探しては埒があかない。ささやかな美点を見つけて持ち上げて、それに便乗するように自分の気持ちも上向きに持って行く。それだけで案外気楽に過ごして行けるものだ。
 ぼんやりと佇んでいると、リビングの縁側に置いてある携帯のランプが点滅していることに気付いて水から出る。冷やされた脛と纏わりつく熱気の差がアンバランスで気持ち悪かったがどうしようもない。長く光るのはメールではなく電話着信。開けばディスプレイには今さっきまで自分の思考の中にいた円堂の名が黒背景に白字ではっきりと表示されていた。

「もしもし」
『秋?俺!』
「うん、どうしたの?」
『ちょっと夏休みの部活予定ちょっと変更したくってさ。今平気か?』
「ちょっと待ってね」

 濡れた足を、縁側に置いていたタオルに適当に押し付けただけで室内に入り自室へ向かう。フローリングを踏む感触がいつもと違う。残ってしまった足跡は後で拭けばいい。
 壁に貼ってある自作の予定表と、訂正用の赤ペンを手にして円堂に続きを促す。どうやらお盆明けの練習を少し減らしたいらしい。監督に過密過ぎるとでも言われたのだろう。秋は、部活の開始時刻に赤ペンで斜線を引いて、次の部活の時に他の部員に伝達しようと考える。それでも少し心配なら、早めに学校に行って職員室の教員に頼んでコピー機を使わせて貰おう。マネージャーとしてやるべき仕事に、秋はいつも思考の大半を用いて働かせている。

「後半は結構楽になるね」
『夏休みだもんな。休みがあったほうが嬉しいよな』
「そうだね。一度くらいは遠出したりする機会があったほうがいいかもね」
『遠出かー』
「円堂君は、休みでもサッカーよね」

 くすくすと笑いながら、疑問にもせずに語りかける。円堂は言葉に詰まったように無言になった。照れているのだろう。
 集中などしなくとも、秋には簡単に思い浮かべられる。鉄塔広場、河川敷、どこにいてもサッカーボールを抱えて泥まみれになっている円堂の姿を。
 ただ、その隣にいる自分の姿を想像しようとすると途端に難しい。いつだって見つめているのに、どうにもままならない。

――海に行きたい。

 通話口を介して、音に出さない言葉を発する。伝わらないと知っているから、伝わればいいのにと願う。
 秋はきっと、海には行かない。部活がなくとも、彼がこの町のどこかでサッカーをしているのなら、他のどこで何をしたって楽しくない。
 一緒に頑張ると誓った日からはもう遠く、担う役割だとかこなす仕事だって増えて、いつも隣にいることなんて想像が難しくなるくらい出来なくなっていくとしても、秋は円堂が好きだったから。諦めるとか、逃げるとか、しない。
 海に行きたいともう一度繰り返し、庭に放置したままのたらいに思いを馳せる。日中の日差しをもろに浴びた冷水は、そろそろ生ぬるくなっているだろうか。海とは程遠い、水溜まり。
 ふと、足元に寄せる波の冷たさを思いだそうとして、出来なかった。秋は暫く海に行っていないから、忘れてしまった。きっと、来年だって行かないだろう。円堂守を想い、彼の傍らでサッカーに携わっている限りは。
 だから秋は、庭でたらいに水を張っては涼を求めて足を突っ込むのだ。暑いばかりの夏を、どうあったって嫌いになれないことなど、とうの昔に知っている。



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あの旅人をやすませてやりたい
Title by『ダボスへ』




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