※リカ←マーク


 夏が来たのだ。そんな当たり前のことを脳内で確認し、まだ大して口を着けていなかったペットボトルをぼんやりと眺める。地面にぽつんと落ちているそれは、もう中身の半分以上をアスファルトの上にぶちまけている。水滴の多いペットボトルと、手に浮かんだ汗の所為で滑った。ついてないと思うべきなのだが、暑すぎて考えるという動作がひどく億劫で困難だった。濃い灰色の中に出来た黒い染みは路肩の排水溝に向かって細々と進んでいく。夏の日差しに燦々と照らされ続けてじりじりと上昇した地温は、流れ出た水分の殆どを気化させてしまうだろう。ぽたり。大粒の汗が一滴、地面に落ちてまた別の染みをアスファルトに作った。どうせこれもまた直ぐ乾いて消えていくのだと思うと、本来無駄な筈のない人体の機能が煩わしくて仕方ない。発汗作用は、自分のようにスポーツをする人間に最も歓迎されるべきかもしれないというのに。
 夏が来たのだ。マークはひとり、自宅の近所をふらふらと徘徊しながら感じる。夏の長期休暇に入った途端、休みにはしゃぐ子ども等の声が響くどころか静寂に包み込まれてしまった住宅街。比較的幼い子を持つ家庭は遠出に繰り出したりするのだろう。可愛い子どもの夏の思い出作りの為と称して、旅行の段取りを組む大人は大抵自分も楽しめるプランを練っているものだ。無邪気な子どもは、寧ろダシに利用されているといっても良いだろう。それが正しいか間違いかとかそういう問題ではない。要は家族が全員楽しめているならばなんの支障もないのだから。ただ、その点で言えばここ数年サッカーが忙しく合宿やら遠征やら試合やら。悉く家族で休暇を満喫する機会を潰しているのは子どもの自分の方だと気付いてしまうと、マークはなんだか申し訳ない気持ちになってしまう。それは、マークがサッカーで活躍することを心底喜んでくれている両親に対してか、それらしい楽しみ方を全く実行してやれない夏に対してか。よく分からないけれど、兎に角マークは、夏だと実感する日差しを肌に受けながらどうにもじっとしてはいられなかった。
 この感覚をせっかちと呼ぶのなら、これはきっと伝播してしまったものだと思う。数日前に電話で話したリカは、日本も漸く夏休みになったと嬉しそうに教えてくれた。きっと彼女は冬休みになっても春休みになっても、その冒頭にやっとと添えることを忘れないのだろう。アメリカ人よりずっと四季の移ろいを楽しみながら一年を送る日本人全てが、リカのように早く早くと季節を急かしたりはしないだろう。
 海、山、マツリ、サッカー、宿題、アイス、プール。矢継ぎ早に、リカはマークにこの夏に行きたい場所、やりたいこと、食べたい物を列挙して見せた。中には日本固有の伝統なのか、マークには意味の分からない単語も含まれていた。蝉が五月蝿いとか、猛暑日はメイクが汗で流れるとか、だけどエアコンの風に当たりすぎるのも良くないとか、文句も同じくらいつらつらと述べたリカは、結局夏は沢山遊べるから好きだと締めくくった。本人に伝わる筈もないけれど、マークはリカが挙げる言葉ひとつひとつに頷いて聞き入っていた。彼女が好きだと言ったことのひとつでも、自分も同じように好きだと言えたら、少しだけ安心出来るような気がした。
 マークの夏は、いつもサッカーの一言で終わる。彼と同じスケジュールをこなすチームメイトのディランは、練習日の合間を縫って毎年家族と出掛けている。先日も、休日明けに世界的に大人気なネズミの耳を模したカチューシャを着けてグラウンドに入ってきたから、マスコット扱いしてボールに触らせてやらなかった。ディランは直ぐに泣きついてきた。こんな風に仲間とじゃれつきながら、マークは毎年なんの変哲もない、だがそれなりに充実した夏を送ってきた。ひと夏の冒険とかには、あまり心惹かれなかった。夢がない子どもかもしれない。それでもまだ、マークはサッカー以上を知らないし、求めない。

「ただいま」

 自宅に戻ると、外とは対照的に室内は冷房でガンガンに冷やされていて背筋がぞわりと粟立つ。体調を崩す前にシャワーで汗を流してしまった方が良いだろうと、階段を上り着替えを取りに自室へ向かう。途中、階下から聞こえた母親の「帰ったの?」という言葉にはもう一度「ただいま」と大声で答えた。ベッドの上に置かれた、今日の洗濯物の中から下着とシャツを手に取る。代わり映えのない服装を繰り返してしまうのは、学生の性というより、人間の性だろう。怠惰と言われれば其方も否定出来ないが。
 ふと机の上に置いてあるサッカーの練習予定日のプリントが視界に映り込む。手に取ったばかりの着替えをまたベッドの上に放り投げる。代わりにプリントを手に、壁に掛けられたカレンダーとを交互に見比べる。休みが全くない訳じゃない。連休だって何度かある。それでもマークは家族で旅行に行きたいとかは思わない。両親が行きたいと言うなら行くが、なんなら両親だけで行ってきてくれて一向に構わない。気遣いでも何でもなく、それよりも自分に気を使って欲しくないが為の、マークの言い分。
 それでも、今年の夏ばかりはとプリントとカレンダーを照らし合わせながら自由な時間を割り出し何をするか考えようとしているのは、きっとリカの所為なのだ。自分と同じようにサッカーばかりしている筈の彼女が、あまりに楽しそうにこの夏の計画を話して聞かせるから、何の予定もない自分が寂しくなってしまった。
 本当は、一緒に過ごせたら一番楽しくて、幸せな夏になるのだろうけど。それはまだ、リカに自分の気持ちを欠片も伝えていないマークには望むべくもないこと。会いに行くことくらいなら、許されるだろうかとも思うけれど、日数やら金銭面やらを考えると、やはり子どもの自分ひとりではどうにもままならないことばかりだ。両親に強請る初めての旅行が海外旅行なんて益々可愛気がない。日本で何をしたいのと切り返されたらそれこそ言葉に詰まる。好きな女の子にどうしても会いたいんだなんて、親に打ち明ける話題でもない。マークのキャラでもない。駄目だな、と自分で自分に首を振る。そもそも自分はひと夏の冒険に憧れたり、ましてや挑むタイプの人間ではないのだから。冷静になろうと一端思考を落ち着けようにも、脳裏には絶えずリカの顔が浮かんで消えない。重傷なんてことはとっくに気付いている。
 ぐるぐると思考の波に溺れて戻れない。挑まないと思っていたひと夏の冒険への一歩はただマークの中で決めてしまえば簡単に刻まれる。両親に頼む。断られたらそれまでで、最悪日本人のチームメイトを巻き込めばなんとか行けるんじゃないかとすら予想する。ぐるぐる、ぐるぐる。
 懸念した汗は、冷えるどころか冷風の届かない自室での停止により何度もマークの頬や首筋、背中を伝って落ちていく。夏はとっくに、やって来ていた。



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渡り鳥のようには行けないのです
Title by『ダボスへ』





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