※すごく頭が悪いヒロ円

「ちょっと旅に出ようと思うんだ」

 外から帰宅した円堂を出迎えるように、玄関に立つヒロトは、ちょっとコンビニに行ってくるからというのと同じノリで、言った。円堂は、「旅かあ」とヒロトの言葉を反芻し、それは旅行とは違うのかと些細な違いを問いただそうとした。
 円堂の中では、旅行は直ぐに帰ってくるけれど、旅はなかなか帰ってこないという適当な線引きがなされていた。ヒロトは旅だと言ったから、きっとどこか凄く遠い所に行って、なかなか自分の所には帰ってこなくて、そして連絡を取ることも段々と少なくなって、ヒロトは消息不明になってしまうに違いない。自分はめそめそと泣いて、嘆くけれど、ヒロトがいなくても巡る日常をそれなりに生きて、ここにいる。恋人という優先的に相手を独占できる関係も、自然と解けて進む時間の中に溶ける。これは、別れ話の類だったのだろうか。
 突然飛躍した自身の妄想に、円堂は悲しくなってぽろぽろと涙をこぼす。恋愛は億劫で、未知数で、ヒロトと恋仲になった今でも正直この関係に意味があるのかと疑問に思うこともある。それでも、サッカー関連ばかりを詰め込んだ脳の片隅で、円堂は確かにヒロトのことが好きだった。お別れしてしまうのは、悲しいじゃないか。でも、ヒロトがどうしても行きたいと言うのなら、きっと自分は笑って見送ってやるべきなのだろう。円堂は、そういう人間だ。
 円堂が突然泣き出したことで、ヒロトはとても驚いた。傷つけるような言動をしてしまっただろうか。それとも、予想の斜め上を行く円堂のことだから、このタイミングで目に凄いゴミが入ったとか、そういうことなのだろうか。様々に考えて、どこにも落ち着かず、ヒロトはぐるぐると思考を掻き廻して立ち尽くした。
 ヒロトは、円堂が大切で仕方なかった。恋とも愛とも呼べる感情は、円堂が受け止めてくれたことで大分落ち着きを持ったけれど、それでもその丈を減らすことなどありはしないのだから。
 円堂のことが大好きで大好きで、いつだって傍に引っ付いていたくて堪らないヒロトだったけれど、何故だか急に、旅に出たくなったのだ。ただ遠くに行きたかったのかもしれないし、確固たる目的地があったのかもしれない。ただそれは、今いる現在点から離れたいと思ったからではない。衝動的な、なんとなくで思い立っただけの、軽はずみな発言でしかない。だから、今のヒロトの装備しているものといえば、普段着と、これまた普段から使っている斜め掛けショルダーバック一つだ。そもそも旅立つ人間の標準装備とは一体如何なるものなのか。ヒロトはこれっぽっちも知らないし、調べてもいない。旅の軍資金も、この間新しいスパイクを購入したばかりだから、財布の中身はなんとも寂しいものだった。でも自転車があるから、大丈夫だと妙な自信があったりもする。

「円堂君、どうしたの?目にゴミでも入ったの?どこか痛いの?」
「…なあヒロト。ヒロトがどうしても旅に出たいって言うなら俺は止めないよ?止めないけどさ、でもやっぱり毎日こうして顔を合わせていたヒロトが今日を境にいなくなっちゃうっていうのはすっごく寂しいことなんだ。俺さ、ヒロトのことちゃんと好きだし。毎日一緒にサッカーしてヒロトのシュート受け止めるのも大好きだったんだ。だけどまあ、うん、止めないよ。ヒロトは旅に出たいんだもんな。でも忘れないでな、出来れば電話とか手紙とか出して欲しいって言うか。でも全然強制しないから、無理ならいいんだ。もしヒロトが旅先で何か事件に巻き込まれて音信不通になったとしても俺はここでヒロトが帰って来るの待ってるからな!」

 つらつらと普段なら言わないようなことを、ぽろぽろと涙を零しながら吐露し続ける円堂に、ヒロトはまた驚いて目を見開いた。冷静な人間が、円堂の言葉を聞いたのならば、そもそもヒロトが旅に出る前提から否定しにかかるのだが、生憎相手は基山ヒロトだった。良くも悪くも世界の中心に円堂を据えている彼は、愛したがりの愛されたがりだ。そんなヒロトが、円堂の、自分を想ってくれている発言に舞い上がらない筈がなくて、否定の意見を述べる筈もなかった。
 円堂が、待ってくれているのならば自分はどんなことがあってもここに帰って来なければならない。使命感を新たに、旅立ちの決意を固めるヒロトは、ふと何故旅に出ようなんてことを考えたのかと冷静になり、そもそも円堂と離れ離れになるような旅に出る必要は本当にあるのかと自問自答し始めた。そして直ぐに、円堂から遠い場所に向わなければならない旅に出るより、円堂のそばで毎日サッカーをしている方が何百倍も素敵じゃないかと結論付けた。何故もっと、早く考えなかったのか。それはヒロトにも分からないことだ。
 一気に旅に出たいという気持ちが萎えて、ヒロトは靴を履く意欲すら失った。けれど、精一杯自分が旅に出る背を押そうとしてくれている円堂の気持ちを白紙に返すのもなんだか悪い気がした。泣きながら、一生懸命伝えてくれた言葉には気持ちが込められていて、ヒロトはそれをみすみす溝に捨てるような愚行はしない。だって他の誰でもない円堂の言葉だったから。

「円堂君、旅に出るのはまた今度にするよ」
「ヒロト…?」
「もうちょっと大人になってからっていうか、円堂君も一緒に行けるときにする」

 でも送り出されたのも事実だから、ちょっと隣町まで行ってくるという、あまりうまくない落とし所を作った。帰って来てから、靴も脱がずに玄関に立ちっぱなしの円堂の隣にある自分の靴を履いて、ヒロトは玄関の戸に手を掛けた。ぽかん、とヒロトの突然の方向転換に着いていけずにいた円堂は、戸の開く音ではっとしてヒロトを振り返る。行ってきます、と微笑むヒロトに、行ってらっしゃいと微笑み返す。ついでに、お土産にコンビニでアイスを買ってきてくれと頼む。ヒロトは二つ返事で頷いた。
 ヒロトを見送って、靴を脱いで部屋に戻ってから、円堂は気付く。これは、ヒロトの気紛れに振り回されただけだということに。乾いた涙の跡を手で拭いながら、自分の馬鹿正直さに笑ってしまった。いつか一緒に旅に行こうよと誘われたけれど、一緒にサッカーが出来るなら、一緒にいられるのなら、どこに行けなくたって構わないのだけれど、円堂はそれをヒロトには伝えまいと決めた。それは、ヒロトが何となく旅に出たいと思ったのと同じように、なんとなく。
 いつか、ふたりで旅に出るのなら、やっぱりサッカーボールだけは忘れないようにしようと思った。


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どんぶり勘定の日々
Title by『ダボスへ』





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