夏空の下を、日傘をくるくると回しながら歩く。夏未は、それなりにご機嫌だった。鼻歌を歌い出すまでは行かないけれど、小さく緩んだ口許を見ればきっと誰もが彼女の機嫌が良いことを察するだろう。その理由は、着ている白いワンピースと靴が今日卸したばかりの物であるとか、小さなことでしかないけれど。
 そんな彼女の後ろを歩く下鶴の様子は、ご機嫌とは言えなかった。機嫌が悪い訳でもないけれど、自分と無関係な所で、一緒にいる夏未の機嫌が良いことが分かってしまうから、少し寂しかった。
 中学生で日傘を差して歩く女子に、下鶴は生まれて初めて出会った。高級住宅街でもないこの町では、夏未の歩く姿は優雅なまま、少し浮いている。そんな彼女に並ぶこともせず後ろに付き従うように歩く下鶴もまた夏未とは違った意味で浮いている。
 誘いを掛けたのは、夏未の方からだった。「出掛けましょうか」と誘い文句にしては反論を挟む隙を与えないような響き。その言葉の次には、彼女は既に出掛ける為に席を立っていたから、下鶴は何処に、とかありきたりな質問すら出来ないままこうして彼女と一緒に歩いている。一緒、というには些か語弊が残る距離を残してはいるけれど、それは下鶴以外の誰も気に留めないことである。
 結局、夏未は目的地を口にすることなく颯爽と歩き続けている。かつんかつんと、夏未の靴の踵と、太陽光で熱せられたアスファルトがぶつかる音が聴こえる。二人の横を、自動車が通り過ぎる度にかき消されてしまう音に、下鶴は耳を澄ます。乱れることなく響く音は、どこがとは言えないけれど、どことなく、彼女らしい靴音だと思った。

「ちょっと貴方、どこか行きたいところはあるかしら」
「…特には、」
「そういうときは、貴女と一緒ならどこへでも、とか言うものじゃあないの?」
「何だそれ」
「さあ、私にもよくわからないわ」

 日傘をくるくると回し続けながら、下鶴の方を振り向くこともせず、夏未は愉快そうに微笑んでいるのだろう。口調で分かる。教室で、恋愛話に花を咲かせてうっとりとしていたクラスメイトの女子の手元にあった漫画のヒロインが、ヒーローに囁かれてときめいていた台詞だそうだ。漫画等に興味のない夏未ではあったが、あまりに近くで盛り上がっていたので、自然とその内容は耳に入って来て、なんとなく覚えてしまっていた。
 下鶴は、事情の一切を聞いても、へえとか、はあとか、気のない返事しか思い浮かばなかった。一緒には、どこにも行けそうにないけれど、夏未ひとりなら、世界のどこにだって行ってしまうような、行けてしまうような気がした。それは夏未の背後にある財力も勿論のこと、こうして自分を振り回す彼女のお嬢様らしい気儘さを思ったから。閉鎖的な環境で育ったのかと思えば、たまに驚くべき行動力を発揮したりする。行く当てもなく、下鶴ひとりを供として歩き続けている。体力はなさそうだから、ばてる前にどこかで休憩した方がいいのだが、それを促すべき下鶴はただ夏未の後ろに従うように歩いている。歩きながら、色々と考えている。違い過ぎる、自分たちのことを。性別も境遇も学校も、現在の何もかもが違い過ぎるから、下鶴はいつも夏未の隣に並ぶことを躊躇する。わざと最初の一歩を遅らせて、夏未の半歩後ろに下がってしまう。そんな下鶴を、夏未が時折、じっと見つめてくることには、知らない振りをする。見つめるだけで、何も言ってこない夏未もまた、色々と考えているのだろう。上手く距離を保つことも、縮めることも、離れていくことも出来ない、下手くそばかりの自分たちのことを。
 夏未は、最近になってようやく世界は思っていたより広いものだと気付き始めた。世界とは、国々の所在ではなく、自分が生きる場の方である。手の届く範囲に在るものだけでも、満足できる生活を送ってきた。けれど、それ以外が在ることを、夏未は知った。自分の知らなかったこと、知らなかった場所、知らなかった人、沢山のことを知って、素敵だと思い、もっと欲しくなった。我儘なのかもしれない。けれど、押し込めてしまうには、きっと衝動が強すぎたから、夏未は心の向くまま気の向くまま、思い切って行動するようにしている。だって自分はまだまだ子どもなのだからと、適当な言い訳も携えながら。
 下鶴も、夏未と同じように、最近ようやく世界は広いものだと理解した。目が覚めたと行った方が良いかもしれない。それは、夏未の友人たちのおかげだったりするのだけれど、それに対する感謝を述べたことはないし、これからもずっとないだろう。あの頃は、こうして夏未と二人で出歩いたりするようになるなんて微塵も想像しなかったし、夏未のことなんて知りもしなかった。世の中は、色々と分からないものだと、幼いながらに下鶴は感じ入る。

「ねえ下鶴君、聞いてる?」
「…すまない、もう一度言ってくれ」
「私、貴方と一緒ならどこへでも行くわよって言ったの」
「はい?」
「なあんて、ね!」

 呆気に取られる下鶴を、おかしそうに笑って、夏未は日傘と一緒にくるりと回る。卸したての白いワンピースの裾がふわりと揺れる。そうして、下鶴と向かい合うように立つと、にっこり微笑みながら、夏未は日傘を閉じた。暑い日差しも、日焼けすることも嫌いなくせに、下鶴が言葉を発する前に夏未は彼と距離を詰めだらりと動くことのなかった手を取った。

「これがあると、貴方私の隣に来れなくて邪魔でしょう?」

 これ、と畳んだ日傘でアスファルトを叩いて見せる夏未に、下鶴は苦笑する。今まで視線だけで済まされてきた下鶴の気後れを、とうとう夏未は飛び越えて来たのだから、もう逃げることは出来ない。とっくに決めていた覚悟だとか、諦めを受け入れて、下鶴は自分の手を握る彼女の手を握り返した。
 一緒には、どこにも行けそうにないけれど、夏の日の、短い逢瀬を共にするくらいなら出来そうだから、下鶴は初めて夏未の手を引いて自分から歩き出した。ひとりで歩いていたときとは違って、乱れた靴音を響かせる夏未の歩調を愛しく思いながら。


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もうどこの道まで来たのか
Title by『ダボスへ』





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