夏未の通う学校が見てみたい。ヒロトがそう願ったから、夏未は他の生徒達がいない日曜日に彼を雷門中へと招待した。夏未の日常を辿りたがった彼は、生徒玄関から校内へ入るとわざわざ用意しきたらしい上履きに履き替えて、ぺたぺたと間抜けな音を立てながら気ままに校内を散策し始めた。広大な校舎の中に、いるのはヒロトと夏未だけ。静寂の中、小さな物音もやけに大きく響いて聞こえるからいつも当り前のように歩いている場所ですら少し居心地が悪い。さっさと案内して切り上げてしまおうと夏未はヒロトを急かすのだが、彼は夏未の意に反してこの機会を楽しみたくて仕方がないようだった。代わり映えなどしないだろうに、一つ一つの教室に入り込んでは繁々と辺りを見渡している。端から端まで眺めて行くだけなら、案内なんていらないだろう。それに、散策に夢中になっているヒロトは夏未の解説にも疎かな頷きを返すばかりだったから、少しむっとする気持ちもあったりする。

「ヒロト君、私、少し理事長室に行ってくるわね」
「んー?」
「ごゆっくりどうぞ」

 躊躇いもなく踵を返して、夏未は毎日歩く理事長室までの廊下を一人で歩く。窓からじっと校庭を眺めていた彼は自分がいなくなったことに一体どれくらい過ぎてから気付くだろう。気付いたとして、果たして自分を探したりするのだろうか。そう考えてみて、これじゃあまるで自分がヒロトに探してほしいと思っているみたいで、恥ずかしくなった。構って貰えなくて拗ねているのなら、自分の行動は八つ当たりだ。そんなことはないと、自分の行動を肯定してやるように、丁度理事長室には早めに処理しておきたい仕事が残っているんだからだとか、ヒロトは一人で楽しそうにしていたから、邪魔しないように退散してあげたんだとか、色々と言い訳をこさえて、溜息を一つ。あまり、上手くない、そう思った。
 中学生として、本来励むべきは学問だ。その為に、夏未もこの雷門中で中学生として日常を送っている。ヒロトも、きっとここではないどこかで夏未と同じように一学生として過ごす時間があるのだろう。以前夏未がヒロトの通う学校やら住んでいる場所を尋ねた時、彼は少し考え込む仕草をした後、微笑みながら此処からずっと遠い所だよ、と答えた。なるほど、誤魔化したいのかと受け取った夏未は、それ以降ヒロトの、自分と何ら関わりのない部分を問うことをやめた。探って、尋ねて、知ったとしても、それは自分の手に余るものだろうから。そう意固地になる夏未の隣で、ヒロトは困ったように笑っていた。元来顔色の良くない彼が、申し訳なさそうに顔を傾げて出来る影の所為で益々暗い顔色に映るから、今度は夏未の方が申し訳なくなってくる。そうして、夏未はヒロトに優しくしようと思うのだ。気にしないで、と彼の手を取って微笑めば、途端に嬉しそうに頬を緩めるヒロトを、夏未は現金なことだと呆れながら可愛いと思う。

「割と気の強い女の子達に囲まれて育ったんだけど、みんな根は優しくってさ。だからかな、夏未ちゃんを見てるとちょっと懐かしいっていうか、ああきっと夏未ちゃんも優しい子なんだろうなって思ったんだ」

 こちらが尋ねても誤魔化すくせに、ヒロトは時折迂闊に自分の過去からくる価値観を用いて夏未を測る。ヒロトのいう気の強い女の子達とは、話したことはないが、少し前に邂逅した彼の仲間にいた子達のことを指しているのだろう。夏未とは違う、ユニフォームを着て、彼と同じようにボールを追いかける女の子達を、夏未は羨ましいとは思わない。人には、向き不向きがある。自分に、激しく走り回るプレイヤーとしての素質はない。だから、その分マネージャーとしての仕事にやりがいを感じている。自分に出来ることがある、それは喜ばしいことだ。選手達が苦しんでいる時に信じて待つしか出来ない歯痒さはあるけれど、それはそれ、これはこれだ。
 だが、ヒロトはどうだろう。普通の子どもにしては苦労を重ねていた彼は、学生の日常に放り込まれたことをふと不思議に思うことがあるそうだ。少し前までは朝起きて寝るまでサッカーをしていれば良かった。強要でもあったがヒロト自身が望む部分もあったから、彼はサッカーにばかり没頭してきた。そんな人だから、マネージャーよりも選手としてグラウンドに立つ女の子の方が魅力的に映ったりするのだろうか。絶対に、聞かないけれど。くだらない感傷もあったものだと、理事長室の椅子に腰かけて、結局手に着かないプリントを前に手にしたボールペンをくるくる回してみる。凄く、静かだった。まるで一人ぼっちみたいだと、錯覚するほど無音が広がって、そこで夏未ははっとしてがたんと大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
 何をしているのだろう、ヒロトも、自分も。こんな初めて入る広大な場所に、ヒロトを一人置き去りにして、何をしているのだろう。気付いて、愕然として、焦って走り出した。ヒロトは夏未に、自分のことを全然話そうとはしないけれど、だけど夏未はそれなりにちゃんとヒロトのことを知っている。お兄さんぶって、周囲をよく見ていて一歩引くことを知っている彼は、その実誰よりも構ってちゃんな寂しがり屋だ。夏未はそれを知っていた。一人仲間の輪を微笑ましげに眺めるヒロトに、自分が近付いて声を掛けた時の、彼の嬉しそうな顔を、いつだって忘れない。

「ヒロト君!」
「……夏未ちゃん?」

 普段ならば絶対にしない、廊下を全速力で駆け回って、ヒロトを探した。探し尽して、最終的にヒロトは夏未が彼を置いて行った時にいた教室で机に座りながらまたぼんやりと外を見ていた。どうやら一歩も動いていなかったようだった。
 肩で息をして、額に浮かんだ汗の所為ではりついた前髪もそのまま安堵の表情を浮かべる夏未に、ヒロトは良かった、と呟いて立ち上がった。置いてかれたのかと思っちゃったとそらとぼけて見せるヒロトの笑顔に苦笑する。実際、置いて行ってしまったのだから。散々言い訳したけれど、素直に認めよう。自分は、拗ねていたのだ。ここに来てから、ちっとも自分に固定されない彼の移り気な視線に、苛立っていた。どうやら、自分もヒロトに対しては相当の構ってちゃんだったらしい。

「ねえ、夏未ちゃんの教室ってどこなの?」
「この階じゃないわよ。……行きましょうか」

 ヒロトの手を取って、繋いで、歩き出す。きっとまたにこにこと嬉しそうに笑っているであろうヒロトの顔を確認することは出来ない。慣れないことをして赤くなっているであろう頬を見られるのが恥ずかしかったから。だけど、さっきまで全速力で走っていたのだから、今更かもしれない。そう期待して、そろりとヒロトの顔を盗み見る。そこにはやっぱり喜色満開で笑っているヒロトがいて、そんなことが夏未には嬉しくて、彼女もまた微笑んでみせた。


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ここは生きにくい教室
Title by『ダボスへ』





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