「海がみたい」

 そう呟いた私の手を掴んで、綱海さんは一片の迷いもなく私を自分の家に連れ込んだ。多少の語弊があるけれど、無言で行き先を告げられることなく電車やらフェリーやらを乗り継がされた私の言いようのない不安を考えればこの言葉が一番ぴったりだった。途中なんどもお父さんに連絡を入れようと開いた携帯はもうとっくに充電切れで、黒々としたディスプレイにはぼんやりとした私の顔だけが映り込んでいた。綱海さんと私の携帯は機種が違うみたいで、充電しようにも出来なかった。綱海さんはあっけらかんとして連絡なら自分が入れとくと言ってくれたけど、果たして彼は父の連絡先を知っているのだろうか。
 沖縄に来たのは初めてだった。修学旅行や家族旅行でもなく、男の子にずるずると引き摺られるように訪れたこの成り行きは、いったいどう形容されるものなのだろう。見たかった海は、写真やテレビで見るよりもずっと綺麗だった。だけど、言葉で表せば途端に陳腐なおべっかに成り下がりそうだったから、私はただ黙っていた。綱海さんは、そんな私の意図とか意地だとか全部分かっているみたいに、そして彼自身が、私が今見ている海そのものだと思わせるくらい嬉しそうに微笑んで見せたから、少しだけ、泣いた。
 その日以来、私は海には行っていない。綱海さんの部屋でぼんやりと時間を浪費しているだけ。何日経ったかも数えていない。でもたぶん二、三日程度だろう。綱海さんは毎日のようにサーフィンに出掛けて行く。彼がサーフィンをすることは知っていたけれど、実際にボードを持って海に駆けて行くのを見るのは初めてだった。私の知らなかった彼が、ここには沢山あり過ぎて、私は目をつぶって耳を塞ぎたくて仕方ない。辺りに満ちた潮の香りだって、本当は知りたくなかった。私が知っていた、太陽だとか泥臭さだとか、全部。そんなものは綱海さんのほんの一部にしか過ぎなかったなんて、自分でも驚くぐらいショックで私は結局何もできない。
 私の居場所はここじゃない。でも綱海さんの居場所はここなのだと、この数日間の間にいやというほど実感した。彼のベッドで、頭までタオルケットを被って丸くなる。染みついている綱海さんの匂いは決して私を拒んだりはしない。それだけが、たった一つこの部屋で私が安心できる事実だった。

「久遠?寝てんのか?」
「…おかえりなさい、綱海さん」
「何でそんなん被ってんだよ。暑いだろ」
「よく分かりません」

 いつの間にか帰っていたらしい綱海さんは、私を此処に連れてくる前と何も変わらない。自分のペースを崩すことなく日常を謳歌しその傍らで私に声をかけ、触れ、抱き締める。それは、彼にとっておまけなのか、それとも大事な一部分なのか、私にはやっぱり何も分からない。年の差を感じさせない気さくさは、結局たった一年の違いでも彼が自分より大人で、寛大であると認めざるを得ないから、そう思うのだ。綱海さんは、私より、きっと大人だった。私が年相応より幼い子どもなだけかもしれないけれど、私達の間には埋めがたい何かが横たわってどかない。飛び越えることも、くぐり抜けることもできない。ぶつかるのも怖くて一歩も動けず眺めるだけの、私だった。

「…海が、みたい」

 何で彼の前でこんな言葉を選んだのか。それはきっと、確信していたのだ。海を愛してやまない彼だから、きっと喜んで私に構ってくれるに違いないと。まさか沖縄まで連れて来られるとは思わなかったけれど、それでも、一時でも私の隣に綱海さんは寄り添ってくれる。浅ましい期待だけが私を支配して、動かしていた。お金だって、全くもっていない訳じゃない。綱海さんに着いて行く気が無いのなら、適当にコンビニで充電器を購入して父に迎えに来てもらうことだって、きっと出来た。それをしなかったのも、全部私が決めたこと。かけおちみたいだなあと思いながら、それをするにはまだ子どもだから、どこかで間違えてもまだ取り返しのつくことを自覚して、流されるままになってみただけ。流れ着いた場所が、こんな息のしづらい所だなんて、思いもしないまま。
 帰りたいと言ったら、綱海さんは一体どうするのだろう。また私の手を引いて、もと居た場所まで私を連れて行ってくれるだろうか。それとも、じゃあさようならと此処で別れて放り出されるのだろうか。甘えたい私は、都合の良いパターンばかりを想像して繰り返す。

「今から海行くか?」
「…やっぱり、いいです」
「うん、だよな」
「…?綱海さん?」
「なあ久遠、折角だからさ、久遠の本当に行きたい所に行こうぜ」

 だから、何処に行きたいんだと、優しく音を紡ぐ綱海さんは、きっと最初から気付いていたのかもしれない。本当は、海がみたいなんて、ちっとも思っていなかったこと。私が本当に行きたかった所、そこにはもう何日も前に着いていて、だけどそこは私を受け入れてくれない気がして、息苦しくて身動きが取れなくなっていたこと。元凶の私がこんなだから、それでも、綱海さんはずっと私の好きにさせてくれていたこと、何となく、今更かもだけど理解した。全部、私の所為。私が臆病で、ふらふらと大切な気持ちに向かい合おうとしなかった所為。

「…私は、本当は、ただ」
「…うん、」
「綱海さんと、一緒なら、別に何処でも良くて…」
「うん」
「好きなんです」

 本当にただそれだけ。それだけのことなのだ。私は綱海さんが好きで、欲しかった。一人占めしたかった。人間が人間を独占するなんて、無理だと頭の片隅で理解しながら、必ずしも同じ好意を向けて貰えないと知りながら、無理やりにでも私と向かい合って欲しかった。臆病で幼稚な、私の我儘。
 綱海さんは、私と初めて海を眺めた時と同じように、まるで全部分かっているという風に微笑んで、そして今度はあの時と違ってそっと私に触れて、抱き締めた。息が止まるかと思ったけれど、緩やかな彼の拘束は、きっと抜け出そうと思えば簡単だった。それをしない私は、綱海さんの一挙一動に募る期待を抑えることができない。
 そして、気付く。もしかしたら、綱海さんも、私と同じ、臆病で狡い只の子どもなのかもしれないと。最初から全部分かっていて、分かっていない振りをしていたことも。私が逃げないと知っていて、それでも逃げ道を用意しておいてくれる所も、きっと私と同じ、臆病を抱いているからだ。

「やっぱり、私攫われて来たんですね」
「ん、やっと捕まえた」

 ほら、やっぱり彼は狡い人だ。


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狡猾に君を愛す
Title by『にやり』




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