静かな空間の中に、秋とミストレの靴音だけが響く。平日の美術館は閑散としていて、いくつかある展示室の内、二人がいるフロアには他に誰もいないらしかった。
 平日なのだから、秋には当然学校がある。それを一日くらい大丈夫だと、通学中の彼女の手を強引にひいて連れ出したのはミストレだ。戸惑いながらも、いけないことしてるみたいでどきどきしちゃうと微笑んだ秋だから、きっと怒ってはいないのだと思う。ミストレは、まだ秋との短い付き合いの中で彼女を怒らせたことはない。怒らせたいとも思わない。これが仲間のエスカあたりが相手なら、見下した視線とか相手を不愉快にさせる言葉ももはや常套句のように自然に口から出て来るというのにだ。だがミストレにすら優しく微笑んで見せる秋の隣に立つと、彼は自分の現在点を見失ってしまったかのようにぐらぐらした感覚に襲われる。気持ち悪くはない。寧ろ温かいもの、だがそれ以上に恐ろしい何かだった。
 今、ミストレの前を歩き一つ一つ絵画の前で足を止めじっくりと眺めている秋は確かにそこにいて、だがいるはずもない存在だった。過去に捕らわれて、振り向いたまま動けなくなるなんて、秋と出会う前のミストレならば鼻で笑って見せたに違いない。過去を生きた人間と、未来を生きる人間が恋に落ちたところで結ばれない。そんなことは、ミストレの頭の冷静な部分はいつだって割り切っている。だがそれ以外の全てが嫌だ嫌だと駄々をこねるのだ。一緒に生きたい。行きたい。あの細い腕を掴んで攫ってしまいたい。そんな自己中を絶えず内側に抱えながら、ミストレは秋に会いに来る。秋は、ミストレを出迎えると必ず一度驚いたように大きく目を見開く。そして少しだけ大人びた、穏やかな笑顔を浮かべて歓迎の言葉を紡ぐ。そんな一連をもう何度も繰り返し、二人はいつの間にか随分と距離を縮めていた。
 秋が、ミストレがやって来る度に一度驚いた表情を浮かべるのは、彼が未来人だと云う前提を拭い去ることが出来ないからだ。それは、ミストレが秋を過去の少女と云う前提を抱くのと、同様である。ただ、二人の間にある決定的な違いは、ミストレは秋の今を過去として彼女に会いに来れるのだが、秋はどう足掻いても未来に一足飛びに、ミストレに会いに行くことは出来ない。だから秋は、ミストレと別れる時はいつだってこれが最後かもしれないと、悲痛に似た決意をしなければならない。全てはミストレの気分次第で、この不思議な交流も夢のように消えてしまうものだと秋は認めていた。
 自分の80年後を、秋は考えてみる。こんな時代だから、病気さえ抱えなければ元気に生きているかもしれない。でも折角生きていてもひとりぼっちは寂しいから、今も親しくしている友人にだって生きていて欲しい。旦那さんと、子どもと、出来れば可愛い孫にだって囲まれて暮らしていたい。そうしたらきっと、幸せなんだろうと思う。その団欒の中に、ミストレの影はよぎりもしないのだろう。当たり前で、少し寂しい。
 ミストレと秋が、お互いに抱き合う感情に逆らわず、けれど決して恋とは名付けずに日々を浪費することを、無駄だとは思わない。例えば、この美術館にやってきてから、秋は作品ごとの前でいちいちぴたりと止まって真剣に見入っているようでいて、実際はそんな熱心でなかったりする。ただ、時間を掛けたいだけなのだ。この建物から一歩外に出た瞬間、ミストレが消えてしまわないだなんて、秋には信じきれないことだった。
 ミストレも、この建物に入ってから、ずっと秋の背中や横顔を眺めるばかりで一度も絵画やら彫刻に目線を向けていない。端から興味がないのだから仕方ないことだった。本当に素晴らしいものならば、きっと80年後にだって残っているはずなのだ。わざわざ今、鑑賞する理由はなかった。大体ミストレは世間一般が美しいやら可愛いやらと褒め称えるものに興味がない。それが人物ならば自分の容姿が他人に引けを取るなどとは微塵も思わぬ自信家であったし、事物ならば自分の感じ得た印象しか信じない頑固者だった。

「ミストレ君、ミストレ君のいる時代にもこの美術館は残ってるの?」
「……、それは、」
「ごめんね、未来のことなんて聞いちゃ駄目だよね」

 久しぶりに放られた秋の言葉に、ミストレは何も返せなかった。確かに、過去の人間に未来のことを教えるのは良くないことだ。自分達の現在に影響を与えるようなことがあってはならないのだから。だが自分達が過去にやってきたのも未来を変える為だったのだから勝手なものだとミストレは小さく自嘲し嘆息する。この美術館の未来など実際はミストレの頭の中の情報には全く存在していない。何も知らない。

「私、また此処に来るよ」
「……秋?」
「ミストレ君が未来に帰っても、ずっと来る」
「…そっか」

 ミストレはきっと、未来に帰る。それは遠い先のことではなく、下手をすれば明日にでも、数時間後にでも起こり得る永遠の別離だった。そして彼は、未来に戻っても、決して秋の人生を辿ったりはしないだろう。生死の確認も、仮に生きていたとして、所在の確認もしなければまして会いに行くなどしない。自分達は、共には生きれない存在で、自分の生きる現在を続けていく中で幸せにならなくてはいけない。なんとなく、二人ともそう思う。だから秋も、ミストレが自分の前から姿を消してしまったその後は絶対に彼を待ったりはしないのだ。彼ではない誰かと出会い、恋をして結婚をして出産をしてありふれた幸せな生涯を終えられたらいいと思う。それだけだ。

「――俺も、もしここが残ってたらまた来るかも」
「そう、」

 ぽつりと呟いた言葉を実行するかは、ミストレにもまだわからないけれど。二人はこのまま離れて別々の道を行くけれど。だけど、絶対に忘れないと思う。長い長い時間の中のほんの一瞬、確かに重なった瞬間の、現在を。ミストレも、秋も、これからの途中にこの場所で振り返るのだろう。そしてきっと思う。やっぱり、あの時この胸にあった気持ちは、恋以外の何物でもなかったのだと。



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愛おしくなったら終わりだよ
Title by『にやり』





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