※ヒロ玲前提、瞳子+ヒロト

 おかえり、と出迎えた途端、ヒロトはぼろぼろと大粒の涙をこぼして立ち止まった。彼と向かい合うようにして立つ瞳子は、変わらず家族の前では驚くほど緩い涙腺を持つ弟が、ためらいがちにでも良いから、一歩を踏み出すのを待っている。
 ヒロトがお日さま園を出てから、もう数年が経っていた。同年代の子らに比べて、割と最後まで残っていたヒロトであったが、最後はあっさりと瞳子に此処を出て行く旨を伝えてきた。瞳子は、今でもヒロトが何の不安もないと微笑みながら、でも少しだけ寂しそうに瞳子に旅立ちの決意を伝えてきた夜をはっきりと思い出せる。いつまでも一緒にいられないと理解しながら、それでもきっと沢山悩んだのだろう。眠れない夜に、布団に蹲って泣きじゃくる彼の背をさするのは、いつしか瞳子ではなくなった。ヒロトの愛しい人となった、少女は、自分の前では格好付けて上手く泣けもしないヒロトの手を握りながら彼と共に行くことを選んだのだろう。そんな彼女の姿は、生憎今日はヒロトの隣にはなかったが。
 瞳子にとって、ヒロトはやはり特別抱く感情のある弟だった。だが、彼だけを特別として扱うことは難しかった。何より、それは年の割に悟った考え方をするヒロトを困らせることにしかならなかったのだろうと、今となっては思う。自分の父が彼に与えた特別は、結果として彼に孤独を齎したのだから。万事解決した後だとしても、瞳子は彼をただの基山ヒロトとしてしか扱わなかった。それでも、以前よりはずっと睦まじく温かい絆があったといえる。大人になるにつれて、ヒロトは現実を見据えた自分の将来を選ばなくてはいけなくなる。いくら家族のように暮らしていても子どもでしかなかったお日さま園の仲間は離ればなれにならなくてはならない。ヒロトは、寂しかったし、そう思っていたのは、勿論ヒロトだけではなかったけれど、これは仕方のないことだった。お日さま園が孤児院である以上、循環というシステムを止めることは出来なかった。新しい子を迎える為に、誰かが出て行かなくてはならない。現に今、お日さま園にはヒロト達がサッカーをしてどんなことをしてきたのか、それを全く知らない子どもたちが大勢いるのだ。
 年々、ヒロトはお日さま園に顔を見せにくることが恐くなる。決まっておかえりと迎えてくれる瞳子の顔を、真っすぐ見つめられなくなって行く。きっかけは、本当に些細なこと。お日さま園を出て半年ほど経ったある日、ヒロトは初めて此処に帰って来た。住み慣れていた場所に入ることに躊躇いもなく開けた玄関の戸の向こうに、ヒロトの初めて見る子どもたちがいた。自分が出て行った後に入園した子等なのだろう、さして疑問にもならない在り得る事実だった。だが、その子どもたちの一人がヒロトに放った「お兄ちゃん、誰?」という一言は、ヒロトの胸を刺して穴を開けて言いようのない虚無を作った。自分が過ごした頃の欠片が、もう此処には残っていないような気がして、それはつまり、もう此処は自分の帰る場所では無いのだと、そう残酷な現実を突きつけられたようで、ヒロトは暫く動くことが出来なかった。
 あれ以来、ヒロトはお日さま園に立ち寄り瞳子が自分に向って微笑みながら「おかえり」と自分を受け入れてくれる度に安堵や、懐かしさ、尚迫る忘却への怯えから泣きたくなって、堪えて、でも結局泣いてしまうようになった。今回も、そうだった。既にとまり乾き始めた涙の跡を拭うこともせずに、ヒロトは口を開いた。

「姉さん、俺さ…、」
「…うん?」
「玲名と、結婚しようと思うんだ」

 未だ玄関に二人して立ち尽くしたまま、ヒロトは本日最大の要件を瞳子に打ち明けた。お日さま園にいた頃から、ヒロトと玲名は恋人関係にあり、それを誰かに隠したりもしていなかったから、当然瞳子も認知していた。此処を出て行くと同時に二人で同じ部屋に暮らし始めていたのだから、既に結婚しているも同然の生活を送っている。大きな諍いもなく、瞳子を含め、二人の関係を知る誰もがいずれは結婚するだろうと悠長に思い見守っていた。だから、いつまでも子どもくさい部分が抜けないと思っていた弟が結婚を自分の身に迫ったことと捉え考え、選んだという事実には多少驚いたものの、ヒロトと玲名が結婚するという事実にはあまり驚かなかった。

「そう、おめでとう」
「……ありがとう、」
「…ヒロト?」
「ありがとう」

 何に対しての謝辞なのか、瞳子は測りかねた。自分からヒロトへの祝福に対してのそれならば、少し大袈裟だったから。だから逡巡して、勝手に決めた。きっと瞳子自身を含んだ、このお日さま園で出会った仲間と、このお日さま園そのものに対しての礼だろうと、決めた。
 仲間内では、兄のようにふるまい他者を導けるリーダーシップを有しているのに、臆病な気質を持つヒロトは先頭に立つことに対して昔から積極的ではなかった。妥協も傍観も手段として行使し得たヒロトは、欲しいもの、好きなものを他人に譲ることも厭わなかった。募る想いはあっても、ただ遠巻きに父の顔を見つめ彼や瞳子の服の裾を握りひっぱるようなことを、ヒロトは彼女の記憶に残る限りでは一度もしなかった。そんなヒロトが、どうしても、誰にも譲らないと決め、手を握り離さなかったのがたった一人、八神玲名である。彼女もまた、ヒロト同様、先頭に立つよりも全体が見渡せる位置から仲間を見守ることの方が多い少女だった。いつから惹かれあったのかなど知る由もないが、ヒロトと玲名は共に在り、つかず離れずの位置を保ちながら少しずつ大人になった。家事もそつなくこなす玲名のことだから、きっと今日もあらかたの家事をこなして今頃暇を持て余しているのかもしれない。

「次は玲名も一緒に帰っていらっしゃいね」
「うん、でも…」
「私が寂しいの。私に会いに帰っていらっしゃい」
「…!うん、そうだね、帰るよ。玲名と一緒に」
「待ってるわ」

 ぼんやりと、瞳子はヒロトの寂しさと遠慮に気付いていた。それはきっと、瞳子自身が抱える寂しさによく似ている。一番手のかかった、特別な弟がいた時間を起点に考えてしまうのは、もはや致し方ないことだと瞳子は思っている。そんな中心点にいた子等は、気付けば立派に成長して、しっかりと考えて、決めて、誰かは一人で、誰かと誰かは寄り添い合って、瞳子の前から旅立って行った。自分でお日さま園を守っていくと決めたとはいえ、寂しいものは寂しかった。立場上、瞳子から会いに行くことはそう出来ることではない。此処は、過去なのだ。現在と未来を生きていく人間に声を掛けるには、相応の理由が必要で、そんなものはどこを探しても見つからなかった。
 きっと、生真面目な玲名もヒロトと同様の遠慮をして、二人同時に押し掛けては迷惑だとでも考えているのだろう。それはある種常識で、正解だ。それでも瞳子はヒロトに玲名を連れて来いと何度でも諭すだろう。人生の、何度目かの大きな節目を迎えようとしている大事な弟と妹に、愛していると伝えて抱き締めてやらないと、瞳子の気が済まないのだから。ああ、泣きそうだ。そう思いながら、瞳子は部屋履きのまま玄関に降りて未だ一歩も動けないでいたヒロトを抱き締めた。


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あたし幸福になるよ、きっとよ
Title by『ダボスへ』





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