浮いているからお止めなさい。そう苦々し気に漏らした夏未の言葉を耳の内側に未だ残しながら佐久間は思う。丁重にお断り申し上げます、嫌なこった、お前が言うな、だとか。どんな言葉も顰められた彼女の眉を和らげてはくれないのだろう。だから佐久間は思うだけ。言葉を音には乗せずにぼんやりと夏未の姿を眺める。彼女は、生憎此方を見てはいなかった。

「浮いてるって?」
「白々しいわよ。わかっているでしょう?」

 理事長室の一角。教室で生徒達が腰掛ける物より何倍も華美な造りの椅子に腰掛けながら、夏未は手にした書類に目を通し続けている。佐久間は、あの椅子の造形はなんとなく好いていないのだけれど、あの椅子に腰掛けている夏未を見るのは好きだった。椅子だけでは不完全で、夏未が腰掛けて初めて一つの景色として完成する。そんな盲信的な錯覚に囚われていた。それは、佐久間の内側にある夏未への好意が引き起こす現象なのだろう。佐久間はそんな自分のらしくない傾向をしかと自覚していて、それでいてそれを是正しようなどとは微塵も考えない。無意識に落ちた恋をコントロールしようなどとは端から無理な話だと悟っていた。
 佐久間の、そんな邪である種の純粋な視線を一身に受ける夏未は、今日も理事長室で多忙な父に代わって書類整理といった仕事に精を出している。そして、来客用のソファにどかりと腰を落ち着けながら、佐久間はぼんやりだったりはたまた目をじっと凝らして夏未を見つめている。時折、夏未は視線を少しだけ彼の方に向ける。いつ見ても必ずかち合う視線に、夏未は小さく息を吐いた。暇な訳ではないのでしょう、貴方雷門の生徒ではないでしょう、部活はどうしたのよ、何で私に構うのよ。選択しうる言葉はなかなかに多かった。だが彼は、全く知らない仲ではなかったから、あまり無礼な物言いをしたくはなかった。結果、選んだ言葉は浮いているからお止めなさい、であった。毎度毎度、堂々と生徒用玄関から校内に上がり込み来客用のスリッパを引っ掛けてノックもなしにこの理事長室の扉を開く。帝国の制服を身に纏っている彼が我が物顔でここまでの廊下を歩いて来たのかと思うと夏未は何とも言えない複雑な気持ちになる。だからこそ、いらっしゃい、なんて歓迎出来る訳もなく。どうしたのと用件を尋ねても佐久間は適当な言葉を並べて夏未の問いから逃げた。ただど
れだけ追及しても、佐久間はこの部屋からは逃げなかった。夏未は、放置した。佐久間から話しかけてくることもあるが、夏未の仕事を本格的に邪魔することだけはなかった。夏未にとって、佐久間は当然無害とは言えなかったが有害とも断じがたかった。だから、追い出せなかった。これは、夏未の都合である。

「貴方、部活はどうしたのよ」
「これから行く。お前は部活どうしたのよ?」
「これから行くのよ」

 夏未の言葉の鸚鵡返しは、些か彼女の機嫌を損ねたらしい。難しい。女ってものは、みんな。殊に真面目で、好きな子の扱いは尚更。佐久間の夏未に対するなれなれしさを、彼女は別に疎んじない。だけど、彼女の縄張りともいえる雷門の一員になれない自分を、無警戒に受け入れて貰うには、まだまだ遠い。
 好きなんだけどなあ、どう伝えようか。そんな思考は視界の端に捕らえ続けている夏未の姿が揺れるだけで瓦解する。彼女の肩が少し動くだけで一緒に揺れる柔らかそうな髪だとか、佐久間は一度だって触れたことはない。休みでもない部活を脱け出して会いに来る理由は、そんなにも察せないものだろうか。会いたいと思う根底に好きが隠れていることくらい、至極明解なことじゃないか。自分の立場や気持ちだけを照らし合わせただけの身勝手さ。だが別段責められるようなことでもないと佐久間は思っている。

「なあ、帝国に遊びに来いよ」
「突然なあに?行かないわよ。私は雷門の人間で生徒なの。余所に興味なんてないわ」
「あっそ」

 取り付く島もないとは、このことだろうか。これはサッカー部で練習試合を組むしか夏未を帝国に招く方法はないだろう。だが、それでは駄目なのだと、佐久間は俯いて頭を振る。集団の中の個ではなく、初めから一対一で向かい合いたい。出来るなら、彼女の内側に入り込みたい。だから佐久間は毎日のように此処に来る。サッカー部の部員ですら、あまり訪ねない場所だと聞いたから、尚のこと拘った。その成果は、佐久間に実感出来るほど、未だに上がっていないけれど。
 ポケットから携帯を取り出して開く。届いているメールは案の定自分の部活参加を促すもので、佐久間は笑う。着信を寄越さない、いらん気遣いを佐久間は享受する。だが、実際そろそろ部活に戻らなくてはならない。奥深くまで腰掛けていたソファから立ち上がれば、夏未が書類から顔を上げて佐久間を見つめた。視線は、帰るのと問いかけていたから、短く肯定の言葉を発した。

「明日も来るの」
「たぶん、」
「…分からないわ。貴方、本当に暇なの?」
「いや?結構多忙だぜ?部活もあるしな」
「だったら…、」
「それでも、来る。好きだから」
「え、」

 ばさばさ、と夏未の手にしていた書類が床に散らばった。瞬きを忘れたように、夏未は佐久間を凝視する。驚きしか浮かんでいないその表情に、佐久間はいっそ愉快な気持ちになって来る。それでも苦笑を伴うのは、落胆する気持ちもあるからだ。やはり察しては貰えなかったかと、ある程度は予期していた現在を思う。

「好きって…」
「でなきゃ用もないのに会いに来たりしない」
「今更そんなはっきり言葉にするなんてズルいわよ!」
「今更だから、隠したって仕方ないだろ。俺はお前が好きだ」
「…っ!知らないわ!」

 羞恥が限界を越えたのか、夏未は椅子に座ったままばっと佐久間から顔を背けた。豊かな髪の合間から覗く頬や耳はわかりやすいほど紅潮している。それだけでも、満足だった。自分の気持ちは、ちゃんと夏未に届いている。それだけで。ふ、と溜めていた息と緊張を吐き出して、佐久間は今日は大人しく引き上げようと一歩踏み出した。途端、その足音に反応した夏未が勢いよく佐久間の方へ向き直った。ぱくぱくと口を開閉しては何かを訴えようとしている。

「雷門?」
「あ…、あのっ、明日も…来るのよね?」
「ああ」
「な、なら良いわ。さよなら!気を付けて帰ってね!」

 言いたいことだけを一気に伝えて、夏未は落とした書類をさっさと拾い上げて赤い頬のまままた作業に戻ってしまう。呆然と夏未の様子を見ていた佐久間は、先程の苦笑とは打って変わって歓喜故に弛む自身の頬を抑えることが出来ない。夏未の態度は、彼女の人となりを理解すればかなりわかりやすい。照れ隠しだって、佐久間には分かる。都合のいい答えを期待して良いんじゃないかとだって思い込める。
 また明日、言い残して佐久間は理事長室を後にした。玄関まで向かう足取りは、自然と軽やかだ。明日もまた、佐久間はよその制服を纏ってこの廊下を我が物顔で歩く。愛しい少女に会う、その為に。



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ほんの少しのぎこちなさを乞う
title by『ダボスへ』





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